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8 さだめ(2)
「……可愛い子だ」
驚いて、涼景が顔を上げる。自分のことを言ったのか? と、彼はわずかに理解が遅れた。涼景が生まれた頃から、犀遠は彼を知っている。だからと言って、そのようなことを言われた試しはなかったように思う。
目を見開いた涼景に、犀遠は小さく頷いた。口調が崩れる。
「わしはな、涼景。おまえが幼い頃、おまえの父、広播 に手を引かれ、ここへ来た日をよく覚えているのだ」
「そのようなことが、ございましたか」
涼景は気恥ずかしさを感じながら、誤魔化すように微かに笑った。
「記憶になくても仕方があるまい。あの頃、おまえはまだ、六つになるかならないか……利発そうな目をした、不思議と人を惹きつける優しい子だった」
懐かしむように、犀遠は微笑した。
「あの日、星と陽は、一歳になったばかりでな。私や芳にしがみついて離れなかった甘えん坊たちだ。お前も、都から一時、燕家に戻り、その時間を惜しむように、両親のそばにいた」
「おはずかしゅうございます」
涼景が、がらにもなくはにかむ。犀遠は嬉しげに笑って、
「何の。子とはそのようなものであり、親はそこに喜びを見るものだ。お前の父は、わしの友であった。世が世なら、力を合わせて国を動かしたことだろう」
十分に孝行もできぬまま世を去った父を思い、涼景は唇を噛んだ。
涼景の父、燕涼珥 、字を広範。彼は涼景とは違い、生粋の文官だった。早くに退官して歌仙に戻り、儒学者として名を高めながら、病弱だった母と共に時を過ごすことを選んだ父であった。そのような厳格な燕涼珥の存在は、今も涼景に大きな影響を与えている。
そんな父が、犀遠と深い親交を持っていたことは知っていたが、自分が幼い日にこの屋敷を訪れていた、という話は初耳であった。
「あの時、わしは運命の導きを見たように思うのだ」
犀遠はゆっくりと語った。
「庭先に、広範とおまえ、芳と陽、わしと星。秋の穏やかな午後であった。お前は庭の曼珠沙華を物珍しそうに覗き込んでいた」
涼景は照れ臭そうに俯いた。その様子は、犀遠の目にはまるで我が子のように愛しく映った。
「お前が、花の名前を尋ねて、振り返った時だ。何を思ったか、星が初めて、自分で歩いたのだ。わしから離れようともしない内気なあいつがな。そして、それを追うように、陽も立ち上がった。わしたちは嬉しいやら驚くやらで、ふたりに喝采を送ったものだ。星は初めて会うお前の方へ、転びながら歩いて行った。そして、お前の着物を掴んで、花を指差した。星は名前など知らぬ。だが、お前に何かを教えようとしたのだろう。陽も、お前にたどり着くと、じっと顔を見つめていた。お前は子供ながらに、幼児の歩みのおぼつかなさを案じたのだろう。しっかりと彼らの手をとってくれた」
涼景は犀遠の物語を、不思議な気持ちで聞いていた。両親と別れて暮らし、また、早くに亡くした涼景には、そんな思い出を話してくれる人はいなかった。
「まさか……それがわたくしたちの出会いであったとは……」
涼景は、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「おまえと、そんな話をする間もなく、広範は逝ってしまったからなぁ」
記憶にない、犀家での出来事に、涼景は胸が震えた。おそらく、ほんの一瞬訪れた、平穏な光景であったことだろう。
都で犀星と、あの砦で玲陽と、初めて会った訳ではなかった。自分達は遠い日に、誰も覚えていない過去の一点で、自分達を愛する人々に見守られながら、出会っていたのだ。
これを、運命というのなら、自分達の人生がいかなるものになろうとも、受けて立つ覚悟を持たねばならぬ。
犀遠はしっかりと、涼景に向き直った。
「今でも、曼珠沙華は好きか?」
「はい。伯華様もお好きです」
「そうか、よかった。この家の庭には、必ずあの花を植えるのだ。わしがいる限り……」
涼景はふと、寂しさを感じて膝を握る手に力を込めた。父と母を亡くした心細さが、不意に蘇る。都には信頼できる師も友もいたが、それでも心の置き場所がわからず、常に寂しさが影のようにつきまとったことを覚えている。
「涼景」
ふわりと空気が揺れ、気がつけば、犀遠が目の前に、膝をついていた。涼景の右頬に手を添える。息を呑んで、涼景は目を上げた。犀遠の表情は優しかった。
「可哀想に。この傷は、さぞ、痛んだであろう」
涼景の右頬には、刀傷とは違う、裂傷がある。十文字のその傷は深く、明らかに戦ではなく拷問の類でつけられたものだ。
涼景は目元に救いを求めるような悲哀を浮かべた。それは彼が決して犀星たちには見せない弱みであった。
犀遠は、父のように優しく涼景の肩を抱いた。
「おまえたち三人は、この時代に必要とされ、選ばれたのだ。そして巡り合った。その出自も立場も違えども、志は重なるはず。歴史を創れ」
歴史を、創る?
涼景はじっと犀遠を見つめ続けた。まるで、問いかけるようなその瞳に、犀遠は力強く微笑んだ。
「おまえたちは曼珠沙華と同じだ。三者三様に美しい。どの花も、みな……大切な……」
犀遠は声を詰まらせた。
「侶香様?」
「いずれ、わかる時が来る。その時、おまえが誰かを恨みたいのなら、わしを恨め。全ては、わしが心 を愛したことが、過ちであったのだ」
誰かを想い慕うことを過ちと呼ぶ。それは、涼景にも他人事ではない。燕春の影がちらつく我が身もまた、その苦悶に焼かれる身である。
「侶香様」
涼景は、父とも慕う犀遠に、誓った。
「わたくしが必ずや、どの花も生きられる時代を、お約束いたします」
その真っ直ぐに澄んだ瞳は、醜い世界を嫌になる程見てきた犀遠にさえ、一筋の希望のように思われた。
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