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8 さだめ(3)
時を同じくして、渦中の玲家の血を継ぐ三人の若者が、玲陽の部屋に集まっていた。
玲凛は玲陽の牀に座り、眠り続けている兄をじっと見守った。犀星は、いつもは涼景が座っているあたりで炉の炭を調節したり、薬を合わせたり、甘草を粉にして香として焚いたり、など、瑣末な仕事に取り組んでいる。しかしその動きは緩慢で、どこか、心ここに在らず、という調子である。
犀星はちらりと目を上げた。
玲凛はじっと玲陽を見つめ、こちらには見向きもしない。
その姿は儚げな少女そのもので、先ほど、自分を強く叱責し、激しさを見せた者と同一とは思われなかった。
玲凛がどれほど玲陽を想っているか、その複雑な胸の内は、犀星に理解できるものではないだろう。だが、彼女が決して玲陽を見捨てないこと、そのために尽くすことなら、彼にも信じられる。
正直なところ、犀星は自分以外の誰かが、病床の玲陽のそばにいることを好まない。それは玲陽を思ってというよりは、犀星の弱さがもたらす甘えに近かった。それを自覚しているからこそ、犀星は余計に自分が情けなく、同時に玲凛の言葉には何も言い返せなかった。
東雨……
犀星は涼景が追った東雨の様子が気がかりだった。
彼は明るく闊達であるが、臆病な一面を持つ。特に荒事が苦手で、先ほどの門前での一例のように、いつも自分の後ろに隠れてしまう。玲凛のことも、怖くてたまらなかっただろう。
そんな東雨が、自分を庇った。
犀星には東雨が、出会った当時のまま、小さな子供のように思われる。だが、自分のために必死になった彼は、危なっかしいながら、確かに成長した強さを見せた。
いつの間にか、大人になるんだな、と犀星は思った。
東雨は犀星の侍童である。しかし、年が明ければ十八になる若者だ。もう、侍童という立場には身を置けなくなる。次の道を、歩まねばならないのだ。
いつまでも一緒にいられるわけじゃない。
犀星は心のどこかで、何かに焦りを感じているような気がしたが、それがなんであるかはわからなかった。玲陽を連れて、無事に都に戻ることができたら、東雨のことも真剣に考えなければならないだろう。
チリチリと燃える香を継ぎ足しながら、犀星はぼんやりとそんなことを思った。
無事に、か……
玲陽の傷は、目に見えてよくなってきた。その回復力は、涼景も驚くほどだった。慢性的な栄養失調の中で怪我と向き合ってきたが、玲陽は一歩ずつ、着実にそれを乗り越えた。自分には見せない痛み、苦しみもあっただろうに、一度として泣き言を言うことはなかった。それが、玲陽の強さだ。誇らしくもあり、寂しくもあり、心配でもある。
そんな玲陽に、犀星も涼景も、余計な負担をかけまいと、必要以上の詮索はしなかった。
犀星は、今はもう見慣れた、玲陽の金色の髪と瞳についてさえ、この時になるまで、一度も問うことはなかった。
気にならなかったわけではない。容貌の変化も、あの場所に閉じ込められていた真意も、どうしてあのような理不尽を受け入れねばならなかったのかも。
しかし、玲陽が自分から語れる心境になるまでは、犀星はそっとしておくつもりであった。語ることはおろか、思い出すことも傷に触る。犀星は玲陽の心の安定を第一に考えていた。
心が玲陽なのであれば、そして、それによって痛みを伴わないのであれば、髪の色や目の色など、どうでもよいと、犀星は思う。宮中において、外見の良し悪しを理由にいらぬ争いに巻き込まれたことは数知れない。時とともに移ろう容貌に惑わされ、道を踏み外した者たちがどれほどいたことか。犀星は顔貌を好まれることも多いが、それを褒められても喜ぶどころか、相手を避けるようになる始末である。
職務上、着飾ることがあると、東雨などはあからさまに喜んだが、犀星自身は煩わしいだけだった。
その証拠に、と、犀星は思う。
陽は、そのままで美しいではないか。
着るものが粗末でも、体に傷を受けていようとも、目や髪の色が変わろうとも、玲陽は変わらずに美しい。(と、犀星は思っている)
そんなことを考えながら、玲陽の寝顔を見つめていた犀星は、玲凛がこちらを見ていることに、ずいぶん長く気づかなかった。
玲凛の方も、犀星に声をかけるでもなく、そのどこか夢見るような不思議な表情を、じっと観察している。
玲凛が犀星を見た最後は、もう、十年前のことになる。それも、幼い日の朧げな記憶だ。
彼女にとって犀星の印象は、兄よりも少し体格のいい、強い少年だった。剛気で活動的、いつも兄と自分を引っ張っていく存在だった。子供心に、その蒼い目がきれいだ、と思った。
しかし、そんな『星兄様』への憧れも、時と共に複雑に絡んでもつれてしまった。犀星がいなくなったことがきっかけで、何もかもが壊れたのだ、と、彼女は思っていた。
犀星が歌仙を去ってから、大好きな玲陽は笑わなくなった。いつもどこか遠くを見て、風に向かって立っているような記憶がある。あの頃は漆黒をしていた玲陽の短い髪が、強い風に舞って乱れる横顔を、彼女は痛烈に記憶している。涙を見たわけではないが、あのとき、玲陽は泣いていたのだと、玲凛は思った。
星兄様のせいだ。星兄様が、陽兄様を傷つけた。
幼い玲凛は、素直にそう思い、犀星を恨んだ。
まだ、兄たちの苦しい事情など何も知らないころだった。
月日が流れ、玲陽は凛にとって、記憶の中の美しい姿のまま、憧れの存在へと変成していった。
玲陽があの砦にいることを知った玲凛は、会いたい一心で方法を探した。そして、かつて犀星が見つけたあの抜け道を発見した。その時は、玲陽の逃亡を阻止するために埋められていたが、彼女は何年もかけて、その土砂を取り除き、少しずつ、道を開いた。そうやって、砦に侵入することができたとき、玲凛は十二歳になっていた。数日前に犀星が通ったあの通路は、玲凛が玲陽に会うために切り開いたものであった。
しかし、玲陽との再会は、彼女をさらなる悲しみへと誘った。真夜中、やっとの思いで中に入った玲凛は、闇をつんざく悲鳴に、全身が総毛だった。何が起きているのか、彼女には理解できなかった。気配を殺して、震えながら奥へと進んだ彼女は、変わり果てた兄の姿に、一瞬、気が遠のいた。
耳を塞ぎ、草むらの中にうずくまって、彼女は一夜を明かした。翌朝、玲凛は朝靄の中で玲陽の前に姿を見せた。
彼女には想像もできない夜を過ごした玲陽が、ふらつきながら滝の水に打たれているとき、彼女はかける言葉もないまま、その着物にすがって泣いた。玲陽は再会を喜んだものの、苦しげな声で、二度とここへはこないように、と、彼女に告げた。そして、何か辛いことがあったら、犀家の犀遠を頼るように、と、小さな紙に叔父への手紙を書き、彼女に託した。
玲家の仕打ちに絶望した玲凛は、その足で犀家へと走り、それから四年、この屋敷で暮らすことになる。
玲凛から玲陽の現状を聞いた犀遠は、何度も玲家とかけあったが、それ以上、どうすることもできなかった。
全て、星兄様が悪い。
玲凛はそう、自分の非力さを犀星の責任に転嫁することで、兄を救えない自分の罪から逃れ続けた。それが間違った逃避であることは、十六になった彼女にはよくわかっている。しかしそれでも、苦しみに押しつぶされないために、玲凛は呪文のように犀星への恨みを唱え続けたのである。
「……本当に、何も、知らないの?」
玲凛は、自分の視線にも気づかず、祈るように玲陽を見つめ続ける犀星に、話しかけた。
「!」
一瞬遅れて、犀星は玲凛と視線を合わせた。
「陽兄様が、どうして、あんな目に合っていたのか。何があったのか、何も?」
犀星は黙って頷いた。
「そう」
玲凛は少し目を逸らして考えてから、今度はしっかりと犀星を見た。
「教えてあげる」
犀星の目が、わずかに見開かれる。玲凛は気持ちを落ち着けるように、深呼吸をすると、静かに話し始めた。その声は、どこか玲陽に似ていて、犀星は奇妙な懐かしさを覚える。
「私も小さかったから、母上から聞いたことだけれど」
話し声で玲陽の眠りを妨げないように、彼女は犀星に近づいて座り直した。
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