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9 暗きに開くは曼珠沙華(1)

 夜の帷は全てのものを等しく、しっとりとした時間で包み込む。  犀家の門前では、犀遠が燕家の護衛との連絡をとりながら、兵の休息と軍備の確認のために動いていた。いつ、どのような形で戦いが始まらないとも限らない。その時に備え、彼は可能な限りの準備を怠らない。  玲家の実質的支配者である玲格が、当主の玲芳の動きを封じるための最も重要な駒、それが玲陽だ。玲芳の愛情はただひとり、玲陽にしか注がれてはいない。そしてその唯一の弱点を、このまま玲格が見過ごすはずはなかった。  玲凛は美しい横顔に篝火の鮮やかな橙を映しながら、じっと闇を見つめた。  自分が母に愛されない娘であることを、彼女はとうに受け入れていた。玲芳が実の兄である玲格に、強引な手段で妻にされ、自分を産ませたこと。同じ女である玲凛には、それが激しい嫌悪として心に焼き付いている。母を慕う気持ちと同時に、父に感じるおぞましさ。  自分が、兄と妹の間の子であるという事実、さらに、それを母が望まなかったという現実、その上、父もまた、力のない自分を見捨てた。  何のために生まれたのか。なぜ、生きているのか。  その問いは常に彼女の中にある。  玲凛がたったひとつすがったのが、玲陽だった。  幼い玲凛がこっそりと暗い夜の恐怖に耐えながら、玲陽に会うために砦に通った日々。記憶の中の優しい兄の笑顔だけが、彼女の生きる意思を支えていた。  そんな玲凛に、玲格は選択を突きつけたことがある。  玲凛自身が力を持たないのなら、娘を産め、というあまりにむごい言葉だった。  しかも、玲家本家の血を濃くするため、父である玲格か、それとも兄の玲陽のどちらかと交わることを選ばせた。  玲凛は何も言わず、ただ、その答えを胸深くに沈めた。  母に助けを求めたこともある。  たとえ愛はなくても、玲芳は彼女を傷つけることはしなかった。いつもすまなそうに、目を伏せるだけだ。  玲凛にはわかっている。母もまた、犠牲者であることが。  その母を己の自由にするために、玲格は薬や呪いの類で、母の心をすっかり狂わせてしまった。  今はもう、何を話しかけても答えてはくれない。人形のようにぼんやりと座っているだけだった。  自分への愛がないとわかってはいても、それを見るのは辛かった。自分から母を奪った玲格という存在。それは、たとえ血のつながる実の父であろうとも、到底、受け入れられるものではなかった。  篝火が控えめに音を立ててはぜる。  玲凛は思考の沼から立ち直り、前を見た。  今の自分は、大切な人を守るためにここにいるのだ。強い意志が、その瞳に燃えている。  犀遠、涼景、玲凛。偶然とはいえ、今、この小さな辺境の私邸の庭に、国を動かす三英雄が揃い踏みしているのである。いかに父祖に神を持つとも言われる玲家といえども、そう容易にことを構えることはできない。  犀家の強固な守りの奥、犀星はひとり、玲陽の元にあった。甘ったるい空気には、もうすっかり慣れたが、それもあとわずかのことだろう。玲陽の回復は周囲を驚かせるほど早く、明日にでも、体を起こすことも叶うはずだ。  涼景が犀星のために持ち込んでいた貴重な薬は、玲陽にとっては天恵であった。親王という位は、犀星の人生に辛い影響しか与えないものであった。だが、今回ばかりは、幸いだった。  ぼんやりと灯る油灯が、玲陽の眠りを妨げないよう、部屋の隅でゆらゆらと揺れている。その光が壁に映し出す自分の影を、犀星はじっと見つめていた。影に染められるように、牀には体を横向きにして玲陽が横たわっていた。玲陽の背中にはひどい火傷の古傷があり、仰向けの姿勢は辛そうだった。褥瘡をふせぐため、犀星は頻繁に姿勢を変えてやった。衣ごしに触れる玲陽の体温が、犀星の手のひらと胸を火照らせた。  かつて、これほど玲陽に触れることはなかったように思う。  一緒に暮らし、すぐ隣にはいても、意図してその肌に触れることはしなかった。むしろ、そんな瞬間が偶然訪れるたびに、犀星はびくりとして手を引いたものである。もっと幼い頃は、玲陽をおぶったことも、手を繋いで歩いたこともあるような気がするが、相手を意識するようになってからは、すっかり臆病になってしまった。  物思いに耽ると、最後に必ず、玲陽と再会した時のことを思い出す。冷たく傷ついた玲陽と、素肌を合わせて抱き合う自分は、どれだけ追い詰められていたのだろう。今となっては、頭が真っ白になるほど気恥ずかしく、どうにも逃げ出したい衝動に駆られる。  あれは、必要なことだったから。  そう、自分に言い聞かせるが、どうにもおさまりが悪い。  それだけではない。  玲陽を治療する中で自分がおこなってきた行為の数々が、妙に艶かしく、恐ろしいことに思われてくる。しかしそれは同時に、日常が戻りつつあることを示していた。  非常事態においては、羞恥心などに惑わされてはいられない。必要ならば臆せずに何でもするつもりだ。治療に伴う接触も、介助のための関わりも、安心を与えるための睦ごとも…… それもこれも、玲陽の体が回復すれば、消えていく関係だ。  犀星は、手を伸ばせば届く距離で、静かに寝息を立てる玲陽を見た。眠る玲陽は、犀星にとって安らぎだった。その顔を見ているだけで、全ての心の騒ぎが静まっていく。ただ、じっと見ている、それだけでよかった。  先ほど、体位を変えてやったとき、寝ぼけた声で玲陽がつぶやいたことを思い出す。 「あのね……棗が、食べたいな」  犀星の頬が緩んだ。炉の番をしながら、玲陽がいつ目覚めてもいいように、白湯と薬湯の用意を欠かさない。犀星は、先ほど厨房から届けられた飯に鶏の煮汁を加え、炉の上で煮込み始めた。一緒に、棗も入れる。腸を温めるための香草と、消化を助けるための温野菜を添え、ゆっくりと時間をかけて煮詰める。  玲陽の食事は回復に伴い、少しずつ、彩りを増してきた。自分から、何が食べたい、と口にできるようにもなった。起き上がれないため、まだ犀星が匙で食べさせているが、それも後わずかのこと。玲陽の回復は嬉しいが、今の関わりがなくなってしまうことは、寂しくもあった。  こうして二人でいる時、犀星の世界は玲陽でいっぱいになる。都でひとりになったとき、そうだったように。だが、あの頃に彼を突き刺した凍りつく孤独は、一瞬脳裏をかすめたあと、すぐに氷解した。  玲陽がいる。  ただ、その一事によって。  犀星は、炉の中で赤くジリジリと空気を焼く炭を見つめた。そっと、手をかざす。じんわりと空気を挟んで伝わってくる熱。玲陽の肌の熱さと比べて、皮膚を焼くように尖っている。  痛いな。  犀星はそんなことを思った。  冬の寒さから守ってくれる力強い炭の熱も、無味乾燥な上辺だけで作られた宮中の雰囲気に似て、犀星の心には鋭さしか与えない。それに比べて、玲陽の肌のぬくもりは、深く心の中まで入り込んでくる気がした。  人の肌って、こんなに沁みるんだな。  犀星は手を引くと、じっと見つめた。  一度自分に移った炭の熱で、そっと、玲陽の頬を撫でる。ぴく、と瞼が動いたが、微かに呼吸を深くしただけで、玲陽は目覚めなかった。  本当によく寝るな、と犀星は少し呆れてしまう。体を癒すためだけではないのだろう。長い間、安心して眠ったことなど、なかったのだろう。想像して、昼間に玲凛から聞いた話を振り返る。  新月の光。傀儡の浄化とそれに伴う苦しみ。他者の鬱積による破壊。そして、底の見えない孤独。  犀星は玲陽から手を話すと、その手を握りしめた。  逃げられたはずなのに。  犀星は拳を自分の胸に当てた。  まだ、体力がある頃ならば、逃げられたはずだ。だが、玲陽はそうはしなかった。自分が傷ついても、誰かを守ることを選んだ。選び続けた。死の直前まで。それが玲陽であるのだから。  もし、このまま回復したら……彼は何を選ぶんだ?  ゾッとした。気持ちの昂りが腹の奥底から湧き上がってきて、喉をついて迸りそうな嗚咽を覚えた。思考が弾けて理性が遠のく。  流されてはダメだ。  助けを求めるように、玲陽を見つめる。  もう、全て、終わりにしなければ。続けさせるわけにはいかない。それだけは絶対にだめだ!  強く、心に誓う。  自分がどうしてこれほど、玲陽に惹かれるのか、その理由は犀星にもわからなかった。それでも、それが決して一時の気の迷いではないと、自信を持って宣言できる。  これが、愛なんだろうか。  自分らしくもない、と思いながら、犀星はそんなことを考えた。そうするうちに、胸の高鳴りが少しずつ静まってくる。  玲陽のことになると我を忘れる自分は、戒めなければならないと思う。  冷静無比な、蒼氷の親王はどこへやら。  犀星は自嘲し、長く息を吐き出した。そうだ、せめて自由になる呼吸を整える、それだけでも気持ちを鎮めることができるはずだ。  玲陽の胸の動きに合わせるように、犀星はゆっくりと繰り返した。やがて、背中の震えがおさまっていく。  感情の大きな波をやり過ごした気がする。

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