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9 暗きに開くは曼珠沙華(2)
そういえば、と、犀星は思い出した。
玲凛に対して感情を爆発させたあの少年はどうしただろう。あれきり、姿を見ていない。
玲陽のことで忙しくして、ここ数日、離れていたせいだろうか。東雨がなぜか、自分から遠くなったような気がする。都で過ごす間、一日と空けずに顔を合わせていた。それが日常であり、特に意識したことはない。
それなのに、こうして馴染んだ屋敷で、玲陽と過ごす間、東雨のことはほとんど思い出しもしなかった。
薄情者。
玲凛に一喝された言葉が蘇る。まったくもって、その通りだ。
慣れない土地で、彼が寂しい思いをすることくらい、考えれば容易にわかるというのに。
小さな頃から自分にべったりと懐いていた東雨である。その心境はどれほど心細かっただろう。玲陽と会わせた時もその後も、東雨はどこか様子がおかしかったように思う。少し放っておき過ぎた。
考えれば考えるほど、犀星は己の未熟さに嫌気がさす。
俺は何も成長していない。
目の前のことだけで精一杯で、周囲が見えなくなる。自分のことならばどうとでもするが、人の心は壊してしまえば元に戻すことはできないのだ。
詫びなければならないな。
犀星は反省を込めて、目を閉じた。
と、微かに戸の擦れる音がして、細く引き戸が開けられる気配があった。
咄嗟に犀星は身構えた。
隙間から覗いた人物が、慌てて隠れるのがわかった。
「……東雨?」
犀星はわずかに動揺したが、そんなことは悟らせないいつもの顔で見返した。ずるずると重たそうに引き戸を開いて、東雨はしっかりと姿を見せる。その後ろには、呆れ顔をした犀遠が立っていた。
「父上」
犀星は姿勢を正した。その仕草から何かを感じたらしく、犀遠は微笑むと、東雨の肩をそっと押した。
「こいつが、ずっとそこの廊下で座り込んでいたんでな。連れてきた。……ほら、行かんか」
犀遠はさらに東雨を促した。気まずそうに、東雨は一歩、部屋に入ったものの、そこで固まってしまう。犀遠はそっと東雨の頭を撫でた。
「心配するな。わしの息子は薄情ではない」
どきり、として犀星はわずかに目元を動かした。それを見逃す犀遠ではない。
「星、大切な侍童を放っておくやつがあるか。おまえに東雨はもったいないな」
「…………」
何か言わねば、と思ったが、犀星には言葉が出てこなかった。
どんなに繕っても、犀遠には気持ちを見抜かれてしまう。犀星は観念した。
「東雨、こちらへ」
犀星の言葉に、東雨は返事もなく近づくと、ぺたんと毛氈の上に座り込む。それを見届けて、犀遠は引き戸を閉めた。
眠る玲陽、俯いて黙り込む東雨、そして、人付き合いが苦手な歌仙親王。
誰も、沈黙を破ることができないまま、時間だけが過ぎていく。
若様、何かおっしゃってください!
東雨、何か話せ!
気まずさに耐えかねて、ふたりがそわそわし始めた頃、しゅっとかすかな音をたてて油灯の火が途切れた。
反射的に二人揃って、そちらを見る。
白い煙が一筋、差し込んできた有明の月の弱々しい光の中で、揺らめいて消えていく。
「……灯り、つけましょうか?」
自然な声音で、東雨が言った。まるで、都の屋敷にいるときのような気軽さだった。
「いや、炉の灯りがあるから、十分だ」
犀星は静かに答えた。
「でも」
と、東雨は、犀星が背中にしている炉を見た。炭の赤さばかりが目立って、灯りとしては手元もおぼつかない程度である。
「そのうち、目も慣れる」
言って、犀星は欄間を見上げた。
「月は弱いです」
東雨がつぶやいた。
「もうすぐ、新月ですね」
何気ない東雨の言葉に、犀星はごくり、と喉を鳴らした。自然と玲陽に目がいく。
闇に沈んで、影しかわからない部屋の景色の中で、なぜかぼんやり、玲陽の髪が仄白く光っているような気がして、犀星は唇がひりひりと乾くように思われた。
「あの……」
東雨は灯りが消えて表情が見えなくなったことで、いくぶんか、話しやすくなったと見える。犀星の人慣れしない性格をよくわかっている東雨は、こういう時に自分が動いた方がいいことを知っている。
「昼間は、お騒がせしてしまって、ごめんなさい」
暗がりだったが、東雨はしっかりと頭を下げたようだった。犀星は一瞬言葉につまったが、
「いや、気にするな」
と、掠れた声で言う。
いや、そうではないだろう。
と、心の中で自分を否定し、犀星はもう一度、口を開いた。
「驚いたが……その……」
と、言い淀む。
「怒っていますか?」
控えめな調子で、東雨が尋ねた。
「いや」
と、犀星は短く答えた。
「恥をかかせてしまいましたか?」
と、東雨。
「いや」
と、犀星。
「迷惑、でしたか?」
と、東雨。
「いや」
と、犀星。
「俺、間違ったこと、しちゃったんでしょうか?」
「東雨」
犀星はこの問答に困ったような、何か言いたげな調子で遮った。
「若様?」
自分を呼ぶ東雨の声を、随分久しぶりに聞いた気がして、犀星はさらに喉が締まった。
ああ、ダメだ。
犀星は大袈裟なため息をつくと、額を抑えた。
「すまない」
気づけば、犀星はそんな言葉を発していた。東雨が暗闇の中で、わずかに目を見開いた。
「俺が、悪かった」
東雨は首を傾げた。
犀星は、自分の非を素直に認める潔さを持っており、今までも何度かそのようなことはあったのだが、今回については心当たりがない。
「何のことです?」
「おまえに、配慮が足りなかった」
まっすぐ、犀星は言った。
「自分が、こんなに余裕のない人間だとは、正直思わなかった。すまない」
「……いえ」
と、東雨は何となく応じてから、ふっと肩の力を抜く。
「俺も、ちょっと、不安定でした。疲れちゃったのかな」
と、小さな声で笑う。
暗くて顔は見えないが、その声だけで、犀星には東雨がどんな表情を浮かべているのか、はっきりと思い描くことができた。
俺は、東雨にまで、助けられてばかりだ。
情けなさと同時、笑いが込み上げてきて、犀星も呼吸で笑った。
「若様」
「うん?」
「俺、若様のお力になりますから」
犀星はその声に惹き寄せられるように、暗がりの東雨の影を追った。
「だから、おそばにおいてください」
鼓動が乱れたように感じたのは、犀星の気のせいではない。東雨の声には、胸を波立たせる危なさが感じられた。犀星はつとめて心を鎮めた。
「いいのか?」
「はい」
「三十文だぞ」
「え?」
「一文たりとも、上げないぞ」
「ええっ!」
東雨は途端に夢の中から引き戻されたような声で、不満を訴えた。
「しっかり、根に持ってますね」
「さて」
「若様、誤魔化さないでください」
「忘れた」
「もう!」
完全にはぐらかすつもりの犀星の意図を察して、東雨は膨れたまま、その話題を投げ出した。
もしかして、若様、俺を元気付けようとした?
東雨はちら、と希望的推測をしたが、それを確かめる勇気はなかった。
「あ、そうだ」
東雨は不意に思い出したように、
「若様。昼間、凛が言っていた、玲博って誰ですか?」
犀星が気配を変えるのと同時に、寝ていたはずの玲陽の体が、ギュッと縮んだ。褥が擦れる音で気づいた犀星が、そっと手を伸ばし、玲陽の体を探る。指先が肩に触れた瞬間、怯えたように玲陽は身を引いた。
「陽、心配ない」
犀星は自分の心境は棚上げして、玲陽に寄り添った。
「陽。何も心配はないから。今は自分の体のことだけ……」
「もう、やめてください」
突然、闇の中に玲陽の透き通る声が痛みを帯びて響いた。犀星だけではなく、東雨の胸も苦しくなる。
「あなたがそう言うたびに、きっと大変なことが起きているんだろうなって思ってしまいます。あなたは私には嘘をつけないから」
言って、玲陽は牀の上に両手をついて、上半身を起こそうと力を込めた。下腹部に強い鈍痛が走り、崩れそうになる。犀星の腕が、しっかりとその背中を支えた。
犀星は黙って玲陽の隣に体を寄せて座り、自分にもたれさせる。少し呼吸を整えて、玲陽は乱れた髪を掻き上げた。弱々しい月光がその髪にうつって、さらさらと音を立てるかのようだ。
「私は、もう、大丈夫です。これ以上、腫れ物に触るようなことはしないで」
玲陽の、芯のある細くとも強い声に、犀星は何度か小さく頷いた。
東雨は、じりっと膝を擦って、少し二人に近づいてから、影を頼りに玲陽を見上げた。
今のやり取りだけで、東雨には、玲陽が単に庇護されるべき弱い存在ではないことが伝わっていた。確かに今は、体の自由がきかず、身動きが取れないかもしれない。だが、本来の玲陽は、ただ美しく儚いだけの人ではないのだと、東雨は思った。
「光理様」
東雨は姿勢を正した。何となく、玲陽にはそうすべきだと感じた。
「玲博って人……」
「東雨!」
思わず、犀星が声を上げる。だが、玲陽は冷静だった。
「いいんです」
と、頷いて、
「彼は、私の従兄弟です……兄様の従兄弟でもありますが。今は、私にとっては義理の兄にもあたります」
「侶香様がおっしゃっていました。玲格の次男?」
「はい」
玲陽は小さく、しっかりと頷く。
「あの砦にいたとき、私と接触していたのは彼です。少々込み入った事情で、よく来ていました」
東雨は続けた。
「侶香様も、凛も、その人のこと、嫌いみたいでした。それに、若様も……」
犀星は黙ったままだったが、気配から、否定していないことがわかった。
「戦いに、なるんですか?」
あまりにまっすぐな東雨の問に、玲陽は胸がつまった。
「誰かが誰かを、殺すんですか?」
「東雨どの…… ごめんなさい。あなたは無関係なのに」
東雨は俯いた。
「俺、目の前で人が死ぬのは嫌です」
犀星も玲陽も、それぞれに目を伏せる。
「それに、若様が誰かを殺すのは、もっと嫌です」
東雨の声が辛そうに歪む。犀星の脳裏に、あの夜、怒りに任せて人を殺めた記憶が鮮やかに蘇る。後悔はないというのに、東雨の顔をまともに見ることができなかった。
「俺、怖いです」
東雨は声を絞り出した。
「殺されるのも、殺すのも、嫌です」
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