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9 暗きに開くは曼珠沙華(3)
あまりに純粋な心の吐露に、犀星と玲陽は黙って耳を傾けた。
かつて、自分たちにも、今の東雨のように震えた日があった。まだ幼かったころに経験した歌仙事変を思い出す。戦いに出た犀遠を待って、二人で祈り続けたこと。いつ、自分たちの屋敷に軍勢が押し寄せて殺されるか、怯えて眠れなかったこと。空を見ても花を見ても、美しいと思えなかったこと。そして、戦から戻った犀遠に、素直に甘えられなかったこと。
「……東雨は……」
犀星が、心を奮い立たせるように声を絞った。
「東雨は、何も心配しなくていい」
「若様」
「何もするな!」
血を吐くように犀星は小さく叫んだ。
同じ道は歩かせたくない。
東雨が、東雨自身と関係のないことで、その手を血に染める必要はない。
「いいな」
犀星は念を押した。
東雨は犀星の影を見つめた。月の光はやはり弱いまま、これ以上、目が慣れることはなさそうだった。
「俺、難しいことはよくわからないです」
東雨は、目を細めた。
「玲家のこととか、全然、想像もつかない。だけど、一つだけ、はっきりとわかることがある」
東雨の真剣さは、その声から十分に伝わってくる。
「俺、若様を信じます」
「!」
空気がピリッと鳴ったような気がした。
東雨は立ち上がると、気が晴れた、というように、大きく伸びをした。
「じゃ、俺、寝ますね!」
「え……東雨どの?」
呼びかけた玲陽に、東雨はにっこりと笑って、名残も余韻もなく、あっさりと部屋を出て行った。
拍子抜けしたように、しばらくの間、残されたふたりは寄り添ったまま黙り込んでいた。時折、何か言いたげに玲陽はあたりを見回しては落ち着きをなくしたが、それ以外は、沈黙と静寂を織り交ぜたような静けさが、部屋を充した。時折、ぱちっと音を立てる炉の炭も、もうじき尽きるだろう。
「兄様」
玲陽は赤い炭の光が弱くなり、その残像が消える頃、ようやく、呼びかけた。
「私は……」
「言うな」
優しく、犀星がささやく。玲陽は首を振った。
「ダメです。ちゃんと、向き合わないと」
「いいんだ」
「良くないです……少しも良くない!」
玲陽の声が悲痛に泣く。
「私のせいだ」
低く、彼はつぶやいた。
「私が、いらぬ情けをかけたから、火種を残すようなことをしたから、あのとき、あの人を逃したから……」
玲陽は、自分を支えるために肩に置かれた犀星の手に力がこもって、さらに細かく震えているのを感じた。そっとその手に自分の手を重ねる。
「俺を止めてくれた」
犀星の震えが、玲陽にも伝わる。なだめるように、玲陽は犀星の手を撫でた。今、玲陽の痛みは犀星の痛みであり、犀星の怒りは玲陽の怒りだ。
「感情に任せて刀を取った俺を、陽は止めてくれた」
「……私は、自分が見たくないものから逃げただけ」
玲陽は沈みそうになる気持ちを支えるように、犀星の手を強く握った。
「東雨どのと同じです。あなたが人を殺めるのを見たくなかっただけ」
「陽……」
「でも……それは、何の解決にもならない。私の弱さは、事態を長引かせて、もっとたくさんの人たちを苦しめてしまった」
「…………」
「心のどこかで、すべてが終わったのだと思いたかった。けれど、まだ続いている。これ以上、誰かが傷つくのは嫌です」
玲陽は、澄んだ声で毅然と、
「私は……私を必要とする人たちを、見捨てることはできません。だから……」
寄り添う犀星の顔を間近で見つめる。
「ごめんなさい」
玲陽の声が低められたのは、震えを押し隠すためであったか。
「私、あなたと都には行けない」
何を言われたのか、犀星は数秒、理解できなかった。動揺が、犀星の表情を次第と崩し、困惑の色が濃く浮かぶ。暗い中に、乱れ、戸惑った犀星の息遣いが、切なく響く。途切れ途切れに、犀星は言葉を紡いだ。
「……凛から、新月の光のさだめを聞かされたとき……」
犀星が、苦しげに息を継いで、
「おまえが、そう、言うような気がしていた」
認めたくない、しかし、無視できない不安。
玲陽を知っているからこそ、生まれた不安は、犀星の胸をきつく締め上げていく。
だから考えたくなかったのだ。玲陽ならば、他の誰かを選んでしまう。
「嫌だ」
心臓が早鐘のように鳴り、犀星は理性が曇って感情が荒れるのを抑えられなかった。
あっと言う間に飲み込まれる自分の弱さも、今はどうすることもできない。
「陽は……俺と行くんだ。もう、これ以上、自分を傷つけるな」
心が上げる悲鳴が、言葉となって溢れた。
「……でも、私がいなくなったら、命を落とす人たちがいるんです」
「だからなんだ!」
感情のない玲陽の声を遮る。
犀星は込み上げる想いに任せて、恐ろしいことを言ってしまいそうな自分に気づいていた。それでも、理性の制止など無力だった。最後の力で、犀星は声を低めながらつぶやいた。
「俺を、殺す気か?」
玲陽が、震えると同時に短い悲鳴をあげた。
その一言が、どれだけ自分勝手で甘えたものであるか、犀星にもわかっていた。しかし、無理だ。限界だ。
吐き出すように、犀星は叫んだ。
「どこの誰が死のうが構うもんか! おまえが! 陽が苦しむなんて、それを救えないなんて、もう、嫌だ」
「星……」
ああ、もう、止まらない。
「捨ててしまえ、そんな力! 陽のせいで誰かが死ぬと言うなら、それに耐えられないというなら、俺がその罪、全て背負ってやる。俺はお前を連れて行く。何があっても放しはしない。誰が、どれだけ周りが犠牲になろうと! 俺には、陽だけが……」
体が震え、心がわなないて、犀星はそれ以上、声が出なかった。
狂ってしまう!
玲陽は思わず犀星に体を押し付けた。手足は自由にならず、傷口は裂けるように痛んだが、そんなことはどうでもよかった。犀星が泣いている。それだけで、どんなことをも犠牲にできる。
ふたりは無意識に指を絡ませた。互いに力を込めてつながるその温もりに、気持ちがゆっくりと引いていく。手を通して、二人の感情が揺れ動き、怒りや悲しみで傾いた心の天秤が、均衡を取り戻していくようだ。
玲陽は背中を抱き寄せる犀星の右手を左手でしっかりと握ったまま、自分の右手で犀星の左手を捉えると、指を絡めた。そうして、両方の手をぐっと引く。自然とふたりの距離が縮まる。暗い中で、キラキラと犀星の瞳が|星《ほし》のように瞬くのを、玲陽はじっと見つめた。大きな緊張感とささやかな期待が、ふたりを取り巻く。空間と時間が彼らを一つの影として、その場所に釘付けにしたかのように動かない。
本当に伝えたい言葉は、別れではない。
今なら、向き合える。ふたりなら。
玲陽は弱った腕にありったけの力を込めて犀星を引き寄せる。唇が震える。
「星……お願い」
その目が求める。
「助けて」
犀星の中で、タガがはずれ、彼はそのまま、玲陽を抱きすくめた。痩せた肩が軋み、胸が押しつぶされるように締め付けられたが、それは決して、苦しくはなかった。玲陽は体から力を抜くと、首をのけぞらせて、犀星の抱擁を受け入れる。もう、何も考えなくていい。苦しまなくていい。辛くはない。激しい想いに身を任せるように、玲陽は目を閉じた。彼の心は、押し寄せる安堵に包まれ、恐れが薄れていく。
犀星もまた、黙って目を閉じた。世界の全てが敵となろうと、この人を一人にはしない。巡り会った星と太陽は、決して離れることはない。
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