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9 暗きに開くは曼珠沙華(4)
その夜をどう過ごしたのか、犀星は覚えてはいない。だが、夢に見たことだけは、翌朝目覚めた時にも、しっかりと記憶に焼き付いていた。
夢の中の自分は、あの砦の庭に立っていた。
目の前には、そそりたつ崖と、白く砕けて絶え間なく流れ落ちる滝。
池の水は美しく澄んで、蓮の花がいくつか、控えめに水面に揺れている。池から流れ出る小さな水路は、せせらぎのように昼の太陽を反射しながら静かに石壁まで伸びている。庭の樹木にはムッと熱を感じるほどの鮮やかな緑の葉が生い茂り、枝に這った藤の蔓から、薄紫の香りたつ花が垂れ下がって、微かに風に揺れていた。足元の草は柔らかな土から濃く生えて、色とりどりの花が芳香を帯びて輝くように花弁を開いている。
その中に、自分はじっと、立っているのだ。
滝の奥から、薄紅の長いゆったりとした衣を纏った女性が、羽が舞うようにゆっくりと現れた。
彼女はじっと犀星を見つめ、そっと腕を掲げて、犀星の隣を指す。つられて目を向けると、玲陽の横顔があった。金色の髪に金色の瞳。間違いなく、今の玲陽の姿だった。気づけば、自分たちはしっかりと手を繋いでいた。
薄紅の衣の女性は、何かを放るように腕を動かした。腕が描く軌跡は滑らかで、優美な舞の一幕を見るようである。彼女が腕を下ろして地面を指すと、その指さされた場所を中心として、まるで大地から水が湧き出すように、赤と白との曼珠沙華が吹き出し、波をうって庭一面に広がっていく。緑の庭は瞬く間に曼珠沙華の花畑となり、自分と玲陽はその花の中に取り残される。
驚いて玲陽を振り返ると、彼は微笑んで犀星を見つめ、爪先立ちして口づけた。
その瞬間、曼珠沙華の花弁が一斉に空に舞い上がり、空間全てを埋め尽くす。
赤と白の花吹雪の中で、犀星は玲陽と深く口付けをかわし、互いをその腕に抱きしめた。
「……おい」
「ん……」
小さくうめいて、犀星は目を開いた。そして微笑んだ。
玲陽の透き通る寝顔が、すぐそばにある。焦点も合わないほど近くに顔を寄せて、唇にその寝息を感じると、犀星は柔らかい高揚感に包まれた。
「陽……」
「陽、じゃねぇ。起きろ」
犀星はしばし、夢と現実と、そして後ろから聞こえてきた不機嫌な声との境目で、気持ちを彷徨わせてから、諦めたように息をついた。
「おまえなぁ」
黙って声を振り返ると、涼景が仁王立ちしている。
「何でこうなった?」
「……何のことだ?」
「どうしてお前が、陽と一緒に寝ているのかって話だ」
「?」
犀星は体を起こした。
どうやら、昨夜はあのまま、玲陽の牀で添い寝していたらしい。
涼景は頬を引き攣らせて、
「まさか、食ってないだろうな?」
犀星は、思い出せないな、と振り返り、
「たぶん」
「たぶん、って、おまえっ……」
涼景は褥を半分めくって、玲陽の体を確かめる。玲陽の着物はきちんと整えられたまま、乱れた様子はない。敷布にも、そんな痕跡は見当たらなかった。
「……大丈夫そうだな」
乱暴に褥を戻すと、床に座り込んで新しい食材で粥を煮始めた。
「部屋の中は、ずいぶんなことになっているし」
「?」
「油灯の油は尽きたまま、炉の炭もすっかり燃えちまってる。しかも、作りかけの粥がそのまま放置されている」
「……ああ」
「ああ、じゃねぇよ。おまえは一人で、火の番もできないのか」
種火を消された涼景は、仕事が増えた、と口を曲げている。犀星は牀に腰掛けて、乱れていた襟元をいじった。涼景のような鍛えた体ではないが、引き締まった胸元と鎖骨が覗く。
「悪かった。昨夜、少々話し込んでいたので」
「言い訳はいらん……何をどうしたら、ここまで綺麗に燃やし尽くせるんだ?」
炉の炭は見事に真っ白だった。涼景は隅の籠から火打ち石と火口袋を取り出し、慣れた手つきで石を打つ。火花がはじけ、乾いた麻くずがほのかに赤く染まる。
手際よく種火を育てながらも、終始、涼景の表情は不満そうである。
「どうしたんだ?」
言いながら、犀星は崩れていた髪をほどいた。深い蒼色の髪がなめらかに肩に垂れて、犀星の横顔を際立たせる。その仕草はどこか扇動的ですらある。
「珍しい、おまえがそんなにイライラしてするなど」
「おまえが、そんなだからだ」
乱暴に、涼景は吐き捨てた。
「まったく、人の気も知らないで……」
「何か、あったのか?」
真面目に犀星は尋ねた。いつもなら、落ち着いて答える涼景が、今日はやはり、どうにも様子がおかしい。確かに、ここしばらく忙しい思いをさせてしまったが、そのようなことで機嫌を損ねるような人物ではないはずだった。
「何かがあった、ということではない」
涼景は息を吹きかけて、火を炭に移しながら、
「大の男が、十日以上、こんな部屋の中で過ごしてみろ。出るものも出せずに溜まるのは当然だろうが」
犀星は眉間に浅くしわを寄せて、首を傾げ、
「腹の調子が悪いか? 陽と一緒に粥を食べているから、俺は楽なんだが……」
「そっちじゃない」
恨めしそうに涼景は犀星を睨んだ。怒りではなく、完全に不満の顔である。
「まぁ、自分で始末しなくても平気なおまえには、わからないだろうがな」
「……何の話だ?」
「もう、いい」
むしろ、わからない方がいい。
涼景は言葉とはうらはらに、素早く火の準備をすると、青銅の小さな鍋を炉に乗せた。
「侶香様がお呼びだ。おまえが起きたら部屋に来い、って」
「そうか」
犀星はじっと玲陽を見下ろした。その寝息は深く、安定している。それを確かめて、犀星は立ち上がると、涼景の横に片膝をついた。
「なぁ、涼景」
と、声を抑える。
直前の会話が会話であるだけに、さすがの涼景も真顔になってのけぞった。
「な、何だよ」
上擦った声で呼び、涼景は唾を飲み込んだ。犀星は唐突に、涼景の唇に人差し指を当て、静かに、と声を出さずにささやく。そうしてから、玲陽を振り返り、変わりがないことを確認する。
「涼景……」
犀星の真剣な顔が、あまりにも近い。蒼い瞳は彼の心の深淵を覗く泉のようだ。後ろ手をついて身を引いていた涼景を追って、犀星は四つん這いで迫る。艶のある長い髪がわずかに乱れて涼景に触れる。涼景の目は自然と、犀星の緩んだ胸元に吸い寄せられた。白い絹のような肌に、美しく筋肉の影が落ちている様子は、理性を砕くには十分な破壊力である。体の一部がジリジリと焼かれるような痛みに堪えきれず、かすかに涼景はうめき声を上げた。
追い討ちをかけるように、犀星は涼景の耳に唇を寄せた。吐息が熱い。
「あいつが動けるようになったら、目を離さないでほしい」
犀星が声をひそめてささやいた。
「かなり思い詰めているから、何をするかわからない」
「…………」
断ることなどできない、絶対的な服従を求められる状況。これは一種の拷問ではないか、と思いながら、涼景は必死に頷いた。その反応を見て、犀星は一瞬息を吹きかけ、それから音もなく立ち上がった。
「では、父上のところに行ってくる」
「……おう」
後ろに手をついた中途半端な姿勢のまま、涼景は答えた。動けそうもない。
背を向けて引き戸を開けた犀星が、一度涼景を振り返る。涼景はビクッと体を震わせた。
犀星の流れるような仕草、曲線的な立ち姿、色気のある独特の視線は、今の涼景には残酷すぎる。
「涼景、おまえ……」
「…………」
彼の声までが、体の芯に、ジンジンと染みる。
ああ、もう!
涼景は何かを覚悟した。犀星はわずかに目を細めて、
「陽を食ったら殺す」
「……わかってんじゃねぇか!」
思わず、涼景は子供のように叫んだ。
涼景の大声に反応して玲陽が身悶えする。
犀星は氷のような表情の中に、小さな安堵と微笑を浮かべ、部屋を後にした。
「くそ……覚えてろよ」
完全に収まりがつかなくなってしまった自分の体から目をそむけて、涼景は悪態をついた。
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