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10 間隙に住まう(1)

 犀遠は、自分の部屋の北の引き戸から、朝の歌仙の景色を眺めていた。  しらじらと夜が明けるにしたがい、朝靄が退いて色彩が濃度を深めてゆく。移り変わる景色は、彼の身に起きた波瀾万丈な一生と同様に、人の力ではどうすることもできない圧倒的な力を見せつけ、いつも彼をいましめてくれるようだ。  犀家は代々、豊かな歌仙を領地とし、軍人を輩出する家柄であった。この屋敷の他にも、分家が住まう私邸が随所にある。七代前にこの地に移り住み、周囲の豪族との共存を旨としてきた。その家風は、武芸を重んじ厳格で質素、勤勉な者が多い。犀遠はその最たる人で、玲家でさえ一目置く存在だった。  犀家と玲家の関係は、かつては良好であったのだ。玲心が犀遠と結ばれるまでは。  玲心は、同郷で昔馴染みであった犀遠を、こころ密かに思い続けていた。彼が都で軍部の役職に就いた後も、この歌仙の地で無事を祈り続けた。  やがて、彼女も年頃を迎え、玲家の当主として正式に身分を与えられることになった。しかし、それは、生涯、玲家の屋敷から外に出ることを許されない運命を意味する。一族の中で、子を産み続けることを強いられるだけの一生である。  そんな生活に耐えられなかった彼女は、無断で家を抜け出し、単身、都へ向かった。  歌仙と都・紅蘭との間は、険しい山脈に阻まれ、迂回する道も決して平坦ではない。  旅に慣れた者が馬を用いても、踏破するには十日は要する。ましてや、歌仙から出たこともない若い女性が挑むには、命懸けの旅であった。玲家を出た玲心が犀遠のもとにたどり着いたのは、一月半が過ぎたころであった。  それだけの困難を乗り越え、自分を頼ってきた玲心を、犀遠が拒めようはずもなかった。ふたりはひっそりと夫婦となり、都で居を共にした。  犀遠は当時、すでに幕環将軍として名を知られ、その手腕は先帝・蕭白の絶大な信頼を得ていた。軍人としての才ばかりか、学問や政治にも通じていた犀遠は、周囲の信頼を集めながら、確実に己の理想に向けて邁進する日々を送っていた。玲心は忙しい夫をよく支え、犀遠も妻を慈しんだ。  だが、そんな平凡な暮らしは、長く続かなかった。  犀遠はあるとき、蕭白が主催する夜宴への招待を受ける。帝から、妻である玲心を連れて来るように、との命令が降っていた。それが何を意味するか、宮中の清濁合わせ飲んできた犀遠には、すぐにわかった。  妻を差し出せ、というのだ。  玲家の女性を得て、女児に恵まれれば、特殊な力を手の内に置くことができる。自らの御代の安泰を求める蕭白にとって、玲心は是が非でも手に入れたい駒だ。  玲心が帝の命令を断れば、反逆の罪に問われる。かといって、二人で身を隠したところで、残された犀家の領民たちが苦しむことは明らかだった。  犀遠は、親交のあった燕家当主・燕広範へ書状を送り、自分なき後の、犀家の土地を任せる段取りをつけた。  そうしてから、心の内を玲心に明かし、来世の絆を誓い合うと、二人で事故を装い、家に火を放った。  最後まで、玲心を抱きしめ、庇いながら、犀遠は気を失ったという。  彼が目覚めたとき、状況は最悪の状態へと転じていた。そこは、牢の中であった。そして、玲心の姿はどこにもなかった。  数日後、身なりの良い少年が一人、供を連れて、彼の牢を訪れた。  幼き日の、宝順である。  宝順は、玲心が帝の妾となったこと、自分の嘆願により死罪はまぬがれたが、都下りの命令が降りたことを告げた。  少年だった宝順は、やつれ果てた犀遠を見つめ、その目に涙を浮かべていた。 「余にできるのは、ここまでだ。すまぬ」  その言葉は、決して偽りや策略の上でのものではなかっただろう。  だが、命の恩は末代まで続く。犀遠には、自分がこの少年の治世においても、自由を奪われるであろうことを予感した。  それでも、玲心が生きているのならば、と、少年の言葉に従い、歌仙へと戻ったのである。  時は過ぎ、一年を回ったころ、玲心は子を産んだ。それは帝の第四子であり、男児であった。  本来ならば、後継者候補として大切に育てられるべきところだが、帝が玲心に求めたのは女児である。余計な世継ぎ争いを避けるため、密かに赤子を殺すよう命令が下された。当時、産前産後の介抱のため、玲芳が玲心のそばに参じていた。彼女は玲家の命を受け、玲心の産んだ子が女児ならば殺し、男児ならば連れ帰るように言われていた。玲芳の働きによって、赤子であった犀星は、母の死後、すぐに都から連れ出され、玲家へと戻された。  犀遠は、玲家の方針に反していた玲芳と結託し、犀星を犀家へと引き入れた。  半分は、憎んでも憎みきれない、帝の血を継いだ子である。しかし、犀星には、玲心の面影がありありと見てとれた。玲心を守ることも、共に死に殉じることも叶わなかった情けない我が身なれど、妻が残した小さな命を守り育てることが、犀遠にとっての唯一の贖罪と思われた。  いずれは都へ呼び戻される犀星を、犀遠は深く愛し、慈しんで育てた。犀星も、自分の置かれた状況に苦悶しつつ、父の教えを必死にその身に刻んだ。  血はつながらずとも、確かに親子であった二人は、日々、民を思い、領地の平穏を維持してきたのである。  そして、今。  犀星は犀遠の期待を超えて、その才能を花開かせようとしている。まだまだ危なっかしく未熟な犀星ではあるが、それも含めて、彼の持つ魅力なのだと、犀遠は思う。  友を見れば、その者がわかる、という。  犀星の窮地に、無理を押して力を尽くす涼景と東雨は、都での犀星の姿を写す鏡である。  嬉しくも誇らしくもある。  挨拶もなく、音も立てず、自分の横に並んだ犀星に、犀遠は振り向きもせずに声をかけた。 「眠れたか?」 「はい」  犀星は、犀遠と共に景色を眺めた。その目は朝日にきらめき、力強い生命力を宿している。 「何か、ご用でしょうか?」  犀星は普段の氷の表情のままだ。  犀遠は、ふと、寂しさを感じる。  十年前、都に上がる日が目前に迫ってくるに従い、犀星は感情を殺すようになっていた。  それまでは明るく豊かだった表情が、次第と凍りつき、気持ちを表すことを恐れるようになった。  上洛の不安を周囲に悟られまいとしたのかもしれない。または、その頃から抱いていた玲陽への淡い思いに気づかれたくなかったのかもしれない。  どちらにせよ、その氷の仮面は、都での日々によって、すっかり犀星の一面となってしまったようだった。  他の何に喜びを感じても、このことだけは、犀遠の気持ちを曇らせる。 「父上?」  黙ったままの犀遠を訝しんで、犀星がちらりと目を向け、繰り返す。 「何か、ご用ですか?」  まったく、こいつは。  犀遠は恨めしげに犀星を横目で見た。  用がなければ一緒にいてもくれんのか、おまえは。  やれやれ、と犀遠は首を振って、 「話があるのは、おまえの方ではないのか?」  明確な根拠があったわけではないが、長年の直感のようなもので、犀遠は言った。これが、よく当たるのだ。 「……さすが父上です。お見通しというわけですね」 「なに? 本当に話があるのか?」  やや大袈裟に、犀遠は驚いて見せる。引っ掛けられた、と気づいた犀星が、悔しそうな呆れたような複雑な表情をした。 「まったく、父上には敵いません」 「フッ、勝てると思ったのが己の傲慢」  犀遠は笑い飛ばした。 「……まぁ、いいですが……」  犀星は襟を正して、犀遠を見た。自分より少し背の高い父は、いつまでも、犀星にとっての目標である。口には出さないが、尊敬し、憧れ、信頼していることは間違いなかった。犀星の気持ちは犀遠も感じていたが、できるならば、もう少し素直に甘えて欲しいものだ、と欲が出る。

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