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13 守る者たち(6)

 部屋の随所に陶製の灯明台があり、そのいくつかには淡い桃色や紫の紙がかざされている。周囲を照らすためではなく、光を楽しむ装飾として置かれているようだった。また、天井にも行灯がいくつも吊り下げられている。換気のための欄間には薄い絹の織物が揺れ、差し込んでくる陽の光を様々な色合いに染めていた。  床一面に桜色の|茵《いん》が敷き詰められている。草花や鳳凰など緻密な絵柄が織り込まれ、薄暗い行灯の灯りにぼんやりと浮かび上がる。靴で踏んでもわかるほどにふわりと柔らかく、明らかに上等な品である。  部屋の隅には、貝殻の意匠を凝らした黒塗りの化粧台があり、小筆や紅、香入れ、粉化粧の皿などが整然と並べられている。  壁はさまざまな品で、鮮やかに飾り付けられていた。繊細な七弦の琴、花咲く庭に立つ仙女を描いた絹地の掛け軸、刺繍入りの華やかな長衣、飾り棚には竹や木で作られた小動物に彩色を施した小物。  また、壁と床の境目には、ずらりと白磁の鉢が並べられ、今まさに摘んできたばかりなのではないかという、水々しい花が生けられている。  部屋の中央にはひときわ大きな、朱塗りの牀がある。四方に絹の帳が垂らされ、白や藤色の糸を用いた刺繍で、蝶や牡丹、翼を広げた小鳥の図柄が浮き出している。帳の上部や柱には、金箔を押した雲模様の細工が見られる。  部屋全体は霞がかかったような柔らかい色調で統一され、目に入るものはどれもこれも、甘ったるい菓子のようだ。  まるで、少女の部屋じゃないか。  涼景は素早く室内を見回し、そう、思った。だが、彼が知る限り、この部屋にふさわしい少女は玲家にはいないはずだ。  そして、部屋中に満ち満ちているのは、あの独特の薬香の香りだった。いくつもの香炉が部屋中に置かれていた。特に、牀のそばには、陶製の大きな香炉があり、白い煙が音もなく立ち上り、欄間からの微かな風にたゆたいながら部屋を満たしている。  幻想的で、想像を超えた内装に、軽い倒錯を感じる。  美しいが、何かが、確実に狂っている。 「う……」  と、呻きが聞こえた。  涼景は眉をひそめ、一歩横にずれて、玲凛の前に立った。明らかに、玲凛の視界を遮ることを目的とした動きだ。 「涼景様?」  玲凛は広い涼景の背中をすぐそばに見つめたまま、問いかけた。 「凛、俺の後ろにいろ」  小声で命じるように、涼景は言った。玲凛が首をかしげた時、突如、聞いたこともないような、悲鳴じみた女の声が短く鋭く響いた。犀遠が素早く動いて、牀に近づく。降ろされた帳に手をかけると、力任せに引き下ろした。布が裂ける音が響き、玲凛は小さく首をすくめた。  牀の上には、からみあう男女の姿があった。着衣のままの玲格が、全裸の玲芳を組み敷いている。玲心とも見まごう玲芳の顔に、犀遠は布をとり落とし、思わず数歩、後ろに下がった。玲芳の真っ白な肌に、部屋の色づいた灯りが映って、えも言われぬ怪しげな色気が醸し出される。その腕と脚がうねるようにうごめく様は、ゆっくりとのたうつ白蛇にも見えた。  赤ん坊が泣くような声を上げ、玲芳が体を反らせ、玲格を受け入れている。夜宴で他人の淫態を見慣れている涼景さえ、その様子には戦慄を覚えた。薬香で狂わされた女が、明らかに異常な調度品の室内で、実の兄に犯される姿など、正視できるものではない。  ましてや、と、背後の玲凛を案じる。牀の上の二人は、彼女の実の両親である。兄妹の間に命を得た自分自身を、玲凛はずっと憎み続けていた。それを知っている涼景は、叫び出したい憤りを押さえつけるだけで精一杯だった。  不意に、玲格と玲芳の姿に、自分と春が重なり、涼景は突然の吐き気に見舞われる。どっと全身に汗が噴き出し、頭の中が真っ白に明滅する。動悸とともに血管を激しく流れる血の感触までが彼を責め立てた。思わず膝をつきそうになる。ぐらついた涼景を支えたのは、玲凛の手だった。彼女は涼景の帯をしっかりと両手で掴み、その背に額を押し当てて、じっと立っていた。牀を見なくても、声が、息遣いが、何が起きているのかを突きつけてくる。玲凛は目を見開き、心で泣いた。体の震えを必死に抑える。だが、その足元から這い上がってくる嫌悪感は、どこに逃がすこともできず、玲凛の体内で膨れ上がっていくようだ。 「気持ち悪い……っ!」  玲凛は呻いた。それはむごい事実に対する受け入れ難い叫びだ。  凛……  涼景はまるで、玲凛と支え合っているような思いがした。玲凛は今、自分の背中を頼りにかろうじて立っている。そこには涼景への信頼がある。その信頼が、涼景に、守る者としての気迫を取り戻させる。自分以上に追い詰められている玲凛を思えば、ここで自分が倒れるわけにはいかない。自分を奮い立たせて顔をあげると、見たこともないほどに動揺した犀遠の横顔があった。  玲凛だけではない。犀遠もまた、触れられたくはない過去の痛みにさいなまれ、必死に耐えていた。  目の前にいるのは、玲心ではない。頭ではわかっていても、心が正常に機能しない。薬香のせいもあって、幻惑が現実を塗り替えていく。何が正しく、何が起きているのか、何を信じれば良いのか、何もかもが揺らいで確かなものが掴めない。  犀遠も、涼景も、玲凛も、それぞれがそれぞれに魂を揺るがすような衝撃に打ちのめされていた。その間にも、玲格と玲芳の狂戯は続いている。喉をそらせて仰向いた玲芳の目は、完全に見るべき焦点を失っていた。閉じることのできない口からは、断続的な声が止まらない。それは言語をなさず、文字通り、肉体の緩みに伴って溢れ出る無意識の音だ。それに混じって、低く上ずった断片的な声が、かすかに聞こえていた。それは同じ言葉の繰り返しだ。 「……ん……しん……しん……」  玲格が漏らすその響きを、犀遠たちははっきりと聞き取った。聞き取ると同時に、目の前の悪夢に秘められた全てを悟り、三人は息を飲む。  玲格は、『玲心』を抱いているのだ。  彼がどこまで正気なのかはわからないが、まちがいなく、玲格にとって玲芳は存在せず、全ては玲心を中心として構築された世界にいるのだ。玲格の中の玲心は、純粋な妹のまま、永遠に時を止めた存在だ。  玲凛の手に、ぐっと力が入ったのを、涼景は帯越しに感じた。 「やめて……」  絶望さえ滲んだ声が、濁った空間と時間の中に鮮烈に響く。 「お願い、もう、やめて……」  その声は、涼景ばかりではなく、犀遠の心にも冷静さと立ち向かう意思とを蘇らせる。 「母上……母上を返して!」  玲格が、玲凛の声に動きを止めた。ずん、と重い時間の空隙が生まれる。その底から、這い出るようにして玲格は体を起こし、立ち上がった。ゆらりと大きく傾いで、しかし倒れず、まっすぐに玲凛に体を向ける。その顔には、狂気とも安らぎともつかない曖昧な感情が浮かんでいた。 「……しん……」  つぶやきながら、一歩、玲凛に歩む。気配で、玲凛は固く目を閉じた。背中に感じる玲凛の恐怖に鼓舞され、涼景は刀を構えた。  また一歩、玲格は寄った。涼景がわずかに片足を引いて体勢を整える。間合いに入ったならば、斬る。腹をくくった。自らの死へと近づいていることを知ってか知らずか、玲格はじっと、涼景の背後を見つめている。  凛に手出しはさせない!  涼景は、柄を強く握り、ゆっくり振り上げた。だが、その刹那、玲凛が強く帯を引いた。まるで、涼景の太刀を止めるように。一瞬、涼景の集中が途切れる。  その隙に、犀遠が倒れるように踏み込んだ。  涼景と玲凛の眼前に迫っていた玲格の胸に、体をぶつけざまに太刀を突き立てる。肉を突く音がはっきりと聞こえるほど、その場は静寂であった。じんわりと傷口に血が滲み、黒く着物にしみていく。  玲凛が崩れ落ちるのを、涼景は振り向きざまに抱き留めた。  誰も動かず、誰も動けず、時すら止まる。  ただ、白い煙だけが、朝靄のように揺れていた。  その中で、玲格の瞳が初めて、犀遠を写した。まるで、なぜ、彼がここにいるのか不思議でならない、というようにゆらめく。犀遠は静かに首を横に振った。ふわり、と玲格の表情が緩んだ。そのまま両の瞼が閉じられ、犀遠の胸に崩れ落ちていく。それはまるで、心を許した友に頼って眠りに落ちるかのように、安らかであった。  涼景はただ、背後でひとつの命が消えた気配を感じ、同時に、腕の中で息づく玲凛の熱を愛しく思った。玲凛もまた、自分を繋ぎ止めていた重たい鎖が、煙のように世界から消えていく開放感と、そこに確かに存在していたはずの何かを失った喪失を噛み締めていた。  するり、と、衣擦れが彼らの注意を惹きつけた。玲凛は顔を上げた。涼景の体の向こうに、褥を掻き抱いて、玲芳が静かに佇んでいた。その目はまだ頼りなげではあったが、まっすぐに自分に向けられている。そっと、涼景の腕が、玲凛を送り出した。彼女は吸い寄せられるように玲芳に歩み寄る。  母上、と、声もなく唇がささやく。玲芳はやわらかく玲凛の背を抱いた。玲凛の目の奥に、涙が滲む。 「おかえりなさい」  甘く震えるその声は、玲凛にとって、何かの終わりと始まりを告げる。  涼景は少女の細い背中を、どこか寂しげに見つめた。  と、穏やかだったその顔に、緊張が走った。背筋を氷で撫でられたような感触がして、涼景は犀遠を振り返った。一瞬、梟の鳴き声とともに、犀遠の周りに黒い風が吹いたように見えた。  それはいまだ消えない香の香りが見せた幻であったのか、それとも、別の何かの胎動か。確かなことは、不安の種が芽吹いたという直感だけであった。

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