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14 光の中の決意(1)

 長い夢を見ていたような気がする。  そうだ、それは平和なまどろみではなく、容赦無く吹きつける向かい風に立ち向かいながら、一歩一歩を力を振り絞って進むような夢だった。ぬかるみに足をとられ、重たい荷物を肩に負い、どこへ向かうとも知れずに出口を求めて彷徨い続けるような夢だ。  一瞬、世界が明るくなって、解放されるかと顔を上げたが、そこには鈍重な色をした雲が立ち込めていた。まだ続く。終わりのない時間の渦の中で、最後には立ち尽くすことしかできなくなっていた。  花の香りのような、夢の光景とはあまりにかけ離れた優しい匂いがして、涼景は重い瞼を上げた。ぼけやた視界がはっきりと輪郭を持って焦点が合うと、彼は困惑したように顔を歪めた。 「おはようございます、涼景様」  涼景は大声を上げて飛び起きた。思わずあたりを見回し、自分の服装を確かめた。どうやら『大丈夫』そうである。 「こんなところで寝てたら、いくら頑丈な涼景様でも、風邪ひきますよ」  玲凛が、腰に手をあてて、呆れたように首を傾げた。  涼景はどうやら、門の内側、影壁の向こうに置かれた|榻《とう》の上で、眠っていたらしい。玲家から戻り、昨夜はどうにも体の興奮が収まらず、夜の風に当たっていたことまでは覚えている。 「凛、玲家に残ったんじゃ……」 「母上が落ち着いたから、お伝えに来たんです」  玲凛は一つ、息をついた。涼景の大人の事情など、この少女には関係がない。いつもの桜色の袍が、午前の柔らかな日差しに映えて、いつもより一段と輝いて見えた。 「涼景様、大丈夫ですか? なんか、ぼんやりしていますけど」 「いや、なんでもない」  口元を手で覆うと、目を逸らす。 「それならいいですけど」  と、玲凛が涼景のすぐ隣に腰掛けた。  近い……  涼景は無防備な玲凛の仕草に、思わず体をこわばらせた。玲凛はじっと目の前の空間に目を向けている。その横顔には、まだ涙の気配が残されていた。涼景もまた、落ち着きを取り戻そうと、前庭を眺めた。昨夜は念の為に警備を敷いたが、それも解かれているらしい。犀遠の采配だろう。玲格が討たれ、玲博もいない。玲芳が意識を取り戻して当主として玲家を仕切れば、玲陽が狙われることもなくなる。全て、終わったかに見えた。  だが、傷跡は深く、長く痛むことだろう。  とくに、玲凛は。  涼景は横目で少女を伺った。  昨夜、玲格の倒錯が作り出した部屋で、玲凛は自分の運命と立ち向かい、震えていた。果敢に太刀を奮って戦った戦士と同じとは思えない変容ぶり、それでも、彼女の強さがあったからこそ、あそこで耐え続けることができたのだろう。その精神力は、並大抵のものではない。 「なぁ、凛」  涼景はわずかに声を緩めた。 「どうしてあの時、俺を止めた?」  涼景が玲格を斬ろうと刀を構えた時、玲凛はそれを拒むように帯を引いて彼を止まらせた。  一瞬、なんのことかわからない、というように、玲凛は涼景を見上げた。それから、ほんの少し、目を細めて視線をはずす。その様子はまるで、何かを隠しているように見えた。 「私にもわからない」  玲凛は静かに答えた。 「でも、そうした方がいいと思った」  彼女は、本当にわからないのだ、という顔をした。それ以上、涼景は問い詰めなかった。そうか、と低く答えただけだった。  玲凛の感受性の強さ、気持ちの激しさは、涼景も見て知っている。その彼女がわからないのだから、本当にその通りなのだろう。少なくとも、今、彼女にとっては。 「私、歌仙に残ります」  唐突に、玲凛は切り出した。 「今の母上を、ひとりにはしたくないので」 「…………」 「本当は、陽兄様と一緒に都に行ってみたい。いろんなものを見て、経験して……でも、もう少し、待ちます」 「凛……」  涼景は気持ちがぐっと、押し下げられるような圧力を感じた。 「おまえの力、惜しい」 「え?」 「……いや、また、その時にでもな」  玲凛はそっと涼景に体を向けた。何となく呼ばれた気がして、涼景も玲凛を見つめる。どちらも目をそらせない空気が漂う。 「あ!」  突然、鋭い気づきの声が飛んできた。反射的に二人は顔を向けた。 「凛! おまえ、いつの間に……」  東雨が、こちらを向いて立っていた。どうやら、武具の片付けを手伝っていたらしく、大量の槍を抱えている。目元には、玲博に捉えられた時のアザが、うっすらと残っている。 「何よ、来ちゃ悪い?」  玲凛が喧嘩腰で立ち上がる。しかし、不機嫌なわけではない。むしろ、忘れたい何かを吹き飛ばすための勢いである。 「おまえが来ると、ろくでもないことが起きる気がする」  東雨が頬を膨らませる。こういうところは、本当に子供のようなのだが、と涼景は真顔で見つめていた。奇妙な寂しさが、涼景の胸を吹きすぎた。 「相変わらず身の程知らずね。そういうことは、私に勝ってから言いなさい、って言ったでしょ」 「ああ。勝ってやる!」  と、東雨は意気込んで、それから、しまった、とたじろぐ。 「いいわよ、相手してあげる」  玲凛が一歩進み出る。東雨が押されて一歩引く。 「ま、待てよ!」 「何よ、怖いの?」 「誰がっ! そうじゃなくて……」  東雨は玲凛の腰の太刀を見た。犀遠から授けられたという大太刀の威力は、いやでも忘れられない。 「そ、それ!」  と、東雨は太刀を顎で指した。 「その太刀、ずるい!」 「はぁ?」  本当に何を言い出すんだ、と言うように、玲凛が顔をしかめた。 「俺の刀より長くて、重たいだろ? そんなの、平等じゃない」 「ふーん」  玲凛はすぐにまた、不敵な笑みを浮かべた。表情豊かなところは、東雨といい勝負である。 「だったら、あんた、好きな武器持ってきなさいよ」 「え?」 「なんでもいいわよ? 槍でも、戟でも、戦斧でも」 「……わかったよ!」  引っ込みがつかなくなった東雨は鼻息荒く、 「見てろ、一番でかくて強いやつ、持ってきてやる!」  東雨は勢いよく振り返ったが、抱えた槍の重さでふらついた。 「ふん!」  強がって、大股に兵庫の方へとよろめきながら歩いていく。  玲凛はやれやれと肩をすくめた。 「武器を選んでいるようじゃ、まだまだね」  その言葉に、思わず涼景は吹き出した。妹と同い年で、まだ幼いと思ってしまう玲凛だが、戦う者としての力量は十分だと認めるところである。さすがは、犀遠に直接仕込まれただけのことはある。 「おまえは、武器を選ばないのか?」  わざと、涼景は尋ねた。玲凛は、嬉しそうに涼景を見た。 「武器で戦うのではなく、意志で戦うの」  そういって、にっこりと笑う。 「叔父上の言葉、ね」  涼景はつられて目を細めた。  玲凛は犀遠のことを、叔父と呼ぶ。それは玲陽の影響だったようだ。玲陽にとって、犀遠は従兄弟である犀星の父親、という認識だ。そのため、自然と叔父と呼んだのだろう。たとえ、血のつながりも、籍のつながりもなかったとしても。  犀星も、玲陽も、玲凛も、そして、自分も、犀遠という一人の背中を追って、ここまできた。  涼景には、なぜか自分たちが、あたたかな光で繋がれているように感じられた。 「そうだ、これ」  玲凛が懐から、赤い絹の袋を取り出した。涼景には見覚えのあるものだった。 「これ、母上がどうしても、すぐに叔父上に届けろって言うから」 「書状か?」 「多分」 「何の?」 「わからない」  玲凛は少し心配になって、 「悪い話じゃないといいんだけど」 「侶香様なら、中庭だろう」  涼景は母屋の方角に目を向けた。 「もうすぐ曼珠沙華が咲くから手入れをすると、昨日、言っていた」 「わかった」  玲凛はさっさと歩き出した。涼景は思わず、その後を追った。書状の中身が気になったのか、玲凛が気になったのか、それはあえて、考えないようにしながら。

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