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14 光の中の決意(2)
涼景の見立て通り、犀遠は中庭にいた。久しぶりの余暇を楽しむ老人のように、回廊に座って茶などを飲んでいる姿は、とても歴戦の老将とは思われない穏やかさに包まれている。その隣には、回廊の木板の上に何枚も重ねた毛氈を敷いて柔らかく整え、玲陽が座っている。さらに犀星が彼に体を貸して寄りかからせていた。
足音に気づいて、犀遠は顔をあげ、一瞬、目を見張った。
涼景と玲凛が歩いてくる。昨日の戦いの残滓のような戦慄と緊張が、一瞬、犀遠の脳裏を掠める。久しぶりに手を血で染めた後味は、苦く残りそうだった。
それにしても。
と、犀遠は感慨深げに昨日の戦友を見た。
ふたりとも、本当に頼もしくなったものだ。
涼景と初めて会ったころ、彼はまだ十三歳になったばかりの少年だった。どうしてこのような子供が、一軍を率いる将に任ぜられてこのような辺境に派遣されたのか、と、都の思惑に怒りを覚えたものである。確かに涼景は賢かった。だが、同時に必死すぎた。周囲からの期待に応えようと、幼い心と体に鞭打って戦場に立っていた。そのあまりの危うさに、犀遠はどうしても目が離せなかった。
玲凛もまた、十二歳で犀家に逃げ込んできた。小さい手に玲陽からの一筆を握りしめて。
『私の妹を、お願いします』
玲陽はどんな思いで、その手紙を書いたのだろう。自分もまた苦しい状況に置かれながら妹の身を案じ、そして、犀遠が手を差し伸べてくれると信じて送ってよこしたことに、ただただ、心が痛んだ。犀遠にとって、玲凛は玲陽に託された希望であり、かつての玲陽たちと同じく、日々を生きる意味になった。玲凛の活発で激しい気性は、どこか玲心を思い出させた。
犀遠にとって愛しい子のような涼景と玲凛が、ともに立つ戦友となろうとは、これほど感慨に浸る日がこようとは、思っても見ないことであった。
まぶしげに二人の姿を見ていた犀遠は、不意に目の前に奇妙な影が揺れるのを感じた。一瞬、玲凛と涼景の姿が、かつての玲心と自分の姿に重なる。なぜか、忌まわしい気がして、犀遠は目を閉じた。胸の奥に、落ち着かないなにかが生まれようとしている気がした。そんな犀遠の懸念を振り払うように、明るい声が飛ぶ。
「陽兄様!」
嬉しそうに、玲凛が玲陽に駆け寄る。
「凛どの」
玲陽は思わず腕を伸ばした。素直に玲凛がその腕の中に収まる。犀星と涼景は視線を交わし、同時に微笑んだ。その様子を、犀遠は幸せそうに見つめた。
「叔父上から、玲家でのことを、お聞きしました」
玲陽は玲凛を抱きしめながら、
「あなたに、辛い思いをさせて……」
「陽兄様のせいじゃありませんからね」
玲凛は玲陽の痩せた胸に頬を押し当てながら、
「あれは、私自身の決着です」
ああ、やっぱり。
と、涼景は心の中で唸った。
やはり、この人は強い。
涼景が浮かべた複雑な表情を、犀星は黙って見つめていた。それからそっと玲陽の肩にかけていた褥を直してやる。
玲陽は玲凛の背中を撫でた。そうしながら、目だけは礼を言うように犀星を見つめる。
「凛は強いな」
犀星が、誰にともなく、つぶやいた。玲陽が微笑み、玲凛は犀星を振り返った。犀遠が頷き、涼景は、なぜか横を向く。
ああ、やっぱり。
と、涼景は心の中で唸った。
やはり、この人はずるい。
涼景の心を察しているのか、犀星はうっすらと笑う。その表情を盗み見て、涼景は気まずそうに首を振った。
「陽、無理に立ち上がるなよ。また、辛くなるぞ」
涼景は言いながら、大股に玲陽に近づくと、腕を組んで覗き込む。
「顔色は良くなったな」
「涼景様のおかげです」
玲陽の金色の髪と瞳を、涼景は改めて眺めた。明るい日差しの下で、それは物珍しいものではなく、自然と周囲に溶け込んで目に優しく揺れている。
「おまえが、頑張ったからだ」
涼景は優しく言った。
「本当に、大したもんだよ、おまえたちは」
それはまた、誰に向けたともわからぬ言葉だったが、誰に向けられていても、涼景の素直な気持ちであることに変わりはなかった。
「そうだ、凛。おまえ、玲芳様からの手紙を預かってきたんだろう?」
涼景は、気になっていた話題に触れた。
「忘れてた」
玲凛はくしゃっと笑うと、玲陽を放し、懐を探った。赤い絹の袋を犀遠に差し出す。
「これ、母上が伯父上に届けるように、って」
「芳が? あれは大丈夫なのか?」
「はい。しばらくは安静が必要ですけれど、体の方は傷もありませんし……」
と、少し目を伏せる。
「……父は、大切にしていたようですから」
ぐっと、拳を握って、玲凛は何かを押し殺した。玲格が大切にしていたのは、玲芳ではなく、玲心の面影であることを、皆承知していた。それでも、多くは語らない。
「しばらくは、そばにいようと思います」
「そうだな。そうしてくれると、わしも安心だ」
「はい」
玲凛はしっかり頷いた。それから、犀遠の手の中にある手紙に目を落とす。
「叔父上、それは?」
「ああ、おそらく、中身は」
と言って、袋ごと玲陽に手渡した。玲陽は不思議そうに犀遠を見たが、突如、ハッとしたように表情を変えた。驚きとも、喜びとも思える、小さく弾けたような顔をする。
「見てみなさい」
内容を確信しているように、犀遠は促した。
玲陽はそっと袋から、一枚の白い手紙を取り出した。
透けるほどに薄いその紙は、わずかに優しい香が染み込んでいる。
丁寧に畳まれた紙を開くと、黒髪のように美しい曲線で、懐かしい母の文字が綴られていた。
読むより先に、玲陽は片手を犀星の膝の上に置いた。犀星は黙って手を重ねる。
玲陽はゆっくりと文を目で追い、ある一箇所で止めると、犀星の手を強く握った。
唇が何かを言おうと動き、やがて、何も言えない、と決めたかのように犀遠を見上げた。
「受けてくれるか?」
犀遠の言葉に、玲陽の目が揺れる。玲陽の手元を覗いて文面を読んだ犀星が、小さく声を上げた。玲陽は犀星に向いた。視線が合う。犀星が抱きしめるように玲陽を引き寄せた。犀遠が苦笑いを浮かべる。
「星、それは、わしの役目だぞ」
「叔父上、一体何なんですか?」
玲凛が明らかに不服そうに犀遠を睨む。涼景も事情が気になってならない様子だ。
犀遠は玲陽を見つめた。
「どうだ、陽?」
玲陽は犀星の腕の中から、犀遠を見た。そして、こくんと頷く。犀遠は膝を叩いた。
「そうか! 受けてくれるか!」
「叔父上?」
玲凛は、きょとん、として、珍しく大笑いをして喜ぶ犀遠を見た。ここまで嬉しそうな犀遠を、彼女は知らなかった。
「どういうことだ?」
涼景が、犀星に向く。犀星はそっと、玲陽を抱く腕を緩めた。玲陽はその隙間で体を一同の方へ向けた。それから、照れたように微笑んで、わずかに震えた声で言った。
「私、犀陽になります」
玲芳がよこしてきた手紙は、犀遠からの申し出に対する返答だった。
玲陽本人の意思によって、玲から犀へ名を変えること、犀遠の養子として籍に名を連ねることを許諾する旨が綴られていた。
犀遠は玲陽の手を握った。
「お、叔父上?」
「父上、だ、陽」
「え!」
玲陽は、嬉しいやら恥ずかしいやらで、戸惑いが隠せない。
それを見て、涼景はニヤリと笑った。
「そうだな、そう、呼ぶべきだろう?」
「よかった、これで陽兄様、もう、玲家に振り回されなくて済みます」
玲凛が涙ぐんで微笑む。
「陽、一緒に親孝行できるな」
犀星の言葉に反応したのは犀遠だった。
「ほう? おまえに孝行するつもりがあったとは知らなかったぞ」
と、いたずらめいて笑う。
「いらないなら、引っ込めます」
犀星が言い返した。
「くれるというなら、遠慮はせぬ」
犀遠はさらに重ねた。
「まぁ、おまえがやらぬといっても、勝手に取っていく」
そう言って笑う犀遠の顔は、かつてないほど、穏やかであった。犀星と玲陽が反応に窮して顔を見合わせる。
犀遠は立ち上がると、少し息子たちから距離をとって、背を向けて立つ。そして、手を後ろに組み、わずかに顔を上げて空に目を向けた。日差しがやんわりとその頬を照らした。庭の曼珠沙華の蕾が、しずがに風に揺れる。
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「正躬の身に起きたことは、他人事ではない。なにか一つ歯車が狂えば、わしも同じであったろう。だが、わしには、失った妻よりも見るべき者がいた。それが、彼とわしの運命を変えたのだと思う」
犀遠の立ち姿は、まるで厳かな一枚の屏風絵のように、庭の中でその存在をしめしていた。
「過去はもう、追わぬ。これからは茶でも飲みながら、ここから、おまえたちの背中を見せてもらおう。それだけでいい」
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