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14 光の中の決意(3)

 音もなく、犀星が素早く顔を伏せた。玲陽は振り向きもせず、その腕を引き寄せた。静かに抱く。  星が泣いている。  玲陽にはわかっていた。誰よりも犀星が犀遠を慕っていることを、彼は知っている。  犀星の存在は決して、犀遠にとって美しいだけの結晶ではななかった。愛した玲心が、狂乱の末に自らの命と引き換えに産み落とした子。憎い男の血を引く呪われた子。  そうでありながら、犀遠が精一杯の慈しみを自分に注いでくれたこと。それが、犀星にはずっと、心の棘として疼いている。  その痛みを、玲陽は我がこと以上に感じとる。玲陽の目にも、じんわりと光が滲む。 「うん?」  何かに気づいたのか、犀遠は身軽に振り返った。 「どうした、星、おまえ……」  と言いかけて、笑顔が苦悶に歪んだ。突然に膝をついた犀遠に、涼景と玲凛が駆け寄った。 「侶香様?」 「いや、大事ない……」  すぐに犀遠は顔を上げたが、そのとき、玲陽の視界を何かが横切った。黒く素早い、風のような影。咄嗟に玲凛を見る。彼女もまた、表情をこわばらせて、兄を振り返っていた。兄妹の間にだけ感じられる、あきらかな不安の気配。 「そんな顔をするな」  犀遠は安心させるように笑ったが、額にかすかに汗が浮いていた。玲陽はそっと、犀星から手を解いた。  行ってください。  玲陽の目が、犀星を促していた。玲陽の体を案じるように眼差しを交わしてから、犀星は立ち上がると、父に歩み寄る。代わりに、涼景が黙って玲陽の横についた。 「父上」  犀星はどうしたものか、と若干の迷いを抱えながら、犀遠のそばにしゃがんだ。まっすぐに顔を見て、 「もう、よいお年なのですから、無理をなさいませんよう」  感情を殺す。  父を慕いつつも、踏み込めばその古傷を痛めてしまう気がして、どうしても素直にはなれない自分がいる。  だが、犀遠にはその全てが愛おしかった。 「おまえというやつは……」  言って、犀遠は犀星の頬に手を添えた。犀星は何も言えなかったが、逃げはしなかった。 「もうよい、星」  犀遠の眼差しは、どこまでも深く犀星の心を包む。 「おまえの思いは、誰も傷つけはせぬ。こらえるな」  それは、確かに犀星の中の閉ざされていた扉を開く声であった。  犀星の目から、日の光のような涙がこぼれ落ち、ぽたぽたととめどなく膝を濡らす。犀遠は頬に添えた指で、そっと拭った。それはまるで、幼い日と同じ光景。自分の出生も知らず、ただ、犀遠が全てを受け入れてくれると信じていた日と、同じ涙だった。  隣で、思わず玲凛がもらい泣きをして微笑んだ。  堪えていた何かが喉に支えて、玲陽が袖で顔を覆った。涼景は黙って、その震える背中に手を添えた。  あまりに静かに、しかし、何よりも雄弁に、風が庭に漂い、沈黙を守る。  犀星のほころぶ笑顔を、玲凛は初めて見た。なぜか急に、母が恋しくなった。  玲凛は何かに導かれる気がして、庭の奥を見た。隅の、綺麗に整えられた草の中に、その供養塚が据えられている。  玲凛の視線に、犀遠と犀星が気づく。犀星は少しぎこちなくはあったが、犀遠に手を伸ばして支えて立ち上がらせた。それから、自ら涙を拭って、供養塚の前に膝をつく。祈るでもなく、何かを言うでもなく、ただじっと、年月を経て丸みを帯びた石肌を撫でた。その表情には、今を生きることへの、強い執着が宿っている。  今、ここにいるということ。そのすべての始まりに、想いを寄せる。  犀遠が、ひざまずく犀星にゆっくりと歩み寄った。玲凛の目がそれを追う。  と、突如として、足元から這い上がってくる、肌をなめるような悪寒が、彼女に異変を告げていた。目が離せない。ぴくり、と玲凛の指先が震える。  犀遠の体が、わずかに傾いた。無造作に大太刀を抜く。一歩、二歩、三歩…… 「星兄様!」  玲凛の絶叫。  振り向きざまに、犀星は地を転がった。犀遠の大太刀が、彼の顔を掠めて数本の髪を裂き、同時に、塚の石を打ち砕いた。石片が飛び、一つが犀星の頬に赤く筋をつけた。 「何を!」  瞬時にその場に戦慄が走った。犀遠を見れば、彼は荒い息とともに、大太刀を手に下げ、犀星を睨みつけていた。その形相は、すでに父ではなかった。  犀星は動けなかった。犀遠の二撃目が繰り出される刹那、玲凛がふたりの間に飛び込んだ。太刀で受けようとしたが、角度を誤る。白い火花が弾けて異様な衝撃が両手を貫き、玲凛の刀が真っ二つに折れ、その勢いで犀星のそばに叩きつけられる。 「凛!」  名を呼ぶ犀星と玲陽の声が重なった。 「星!」  涼景が駆け寄って、犀星の体を引き上げた。引きずるように自分の後ろに押しやりながら、距離を取る。  さらなる追撃のために犀遠が動く。その狙いは、間違いなく犀星だ。玲凛が力を振り絞って立ち上がった。 「凛!」  涼景が叫んだ。  玲凛は鍔の手前で折れた刀身を頼りに、再び、犀遠の一撃を遮る。横から力任せに叩きつけられた犀遠の太刀に、玲凛の体が吹き飛ばされ、激しく地に跳ねて転がった。すぐに動くこともできず、擦り切れた肩と足の痛みに、彼女は呻いた。  目の前の出来事の全てが、黒い夢だった。  涼景は後ろに犀星を庇い、太刀を抜いた。その動きに、隠せない迷いが混じる。 「下がってろ!」  涼景は正眼に構えた。  もう、その名を呼ぶことさえできぬほど、犀遠の表情は面影を失っていた。その太刀筋に容赦はなく、しかし同時に、涼景が憧れた美しさも優しさもない。  どうして! 何が起きている!  混乱。焦燥。そして、体の震えは恐怖のためか。  柄を握る涼景の手が、ぎゅっと音を立てた。咄嗟のこととはいえ、あの玲凛がまったくの無力だった。自分一人で抑えられる自信はない。だが、それでも立たなければならぬ。犀星の盾であり、剣であり続けると決めた自分の道だ。そして、そこに導いてくれた恩師と、こうして対峙せねばならない皮肉に、涼景は苦悶のひと声を発した。  犀星は、理性の制御を取り戻そうと、必死に呼吸を繰り返した。頭の芯が焼け付いて、何もかもが空回りする感覚に飲み込まれる。まばたきほどの時間も惜しい中で、早く自分を奮い立たさねばならない。焦っていた犀星の目が、正面の景色を捉えた。  草の上に散らばる、砕かれ、四散した塚の残骸。  無惨に折れて土に塗れた、大太刀の刀身。  身を挺して自分を庇った、玲凛の姿。  体を震わせて盾となる、心を許した友の背中。  肩に温もりが触れて、犀星は振り返った。  すぐ横で、玲陽がじっと前を見つめていた。ままならない体を引きずって、犀星に寄り添う。その強い横顔は、犀星の呪縛の最後の結び目を解きほぐした。 「傀儡です」  犀星は瞬時に、玲陽が語っていたことを思い出した。  この世に深い情念を残したまま人が死ぬと、その想いが傀儡となって残るという。それが生きている者に取り憑き、その心も行動も支配する。犀遠が、意識を取り戻すには、その体から傀儡を吸い出し、浄化するしかない。さもなくば、やがて犀遠は肉体の限界を迎え、死に至る。  玲陽の声がはっきりと、意志を持って響く。 「力を貸してください」 「どうすればいい?」  犀星の答えは短かったが、そこには玲陽に応える強さがあった。 「動きを、止めてください。そのあとは、私がやります」  犀星は、座り込んでいる玲陽の肩を支えにして、立ち上がった。 「わかった」  言って、太刀を抜く。涼景がちらりと犀星を伺った。 「星、おまえは……」 「ひとりじゃ無理だ」  犀星の声は、すでに覚悟を決めていた。涼景と目配せする。そして、一瞬口元に笑み。 「守れよ、涼景」 「……俺が裏だ」  比翼に導く、その言葉。それが、はじまりだった。  短く発する合図を受けて、互いを信じて閃く剣。  比翼の極意は互いを信じる心にある。犀遠が、愛する子らのために編み出したその型はあまりに美しく、そして、危険をはらんでいる。ひとつ呼吸が乱れれば、互いの剣が互いを貫く。涼景は小太刀を左手に加え、防御と牽制を厚くした。  まっすぐに立っているようで、犀遠の体は揺れている。それは傀儡に憑かれたものに特有の、糸で吊るされた人形によく似ていた。傀儡憑き。体こそ人であっても、その心は人にあらず、そして、人の心を持たぬがゆえに、その力は肉体の限界をやすやすと超える。  玲凛が顔を上げたとき、すでにその場に激しい剣戟が響いていた。  犀遠の狙いは犀星だ。常にその姿を追っている。振り下ろされる太刀筋は乱雑で、剣士の名残すら感じられない。ただ、力任せに振る太刀は、時に戦いに慣れている者にとっては厄介だった。先が読めない動きに加え、一撃一撃があまりに重い。肉の痛みも骨の軋みもものともしない、ただ力任せに振るわれる力は、まともに受けるには辛すぎた。涼景は間合いを測って受けずに交わす。刀を合わせて滑らせる。その隙をついて犀星が打つ。痛みを感じない犀遠には、その一撃も通じない。  予測できない犀遠の動きは、比翼を踏む二人の動きを惑わせる。自分は刃を交わしても、それが相手の足元を狂わせる。犀星の刀の先がぶれて、涼景の喉元をかすった。咄嗟に体を捻って涼景がそれをかわす。そこから再度呼吸を合わせて踏み込む。そんな紙一重の瞬間に、二人は互いを強く意識していく。同調する拍動、交わる視線。次第に両者の体が一つに重なっていく感覚に肌も血も沸き立った。危うさの中でこそ発揮される一体感と連携が生む波状攻撃は、決して一人で戦っていては得られない安心感と自信を、白刃の下の彼らに与えてくれた。それこそ、比翼のもたらす最大の強さである。  動きを止めることは、相手を倒すことよりも難しい。普通の人間が相手であれば、とうに気を失わせることもできたであろうが、初めから意識のない犀遠には、そのような牽制は通じない。かと言ってその体に傷を負わせることは、最低限にとどめたい。涼景が犀遠をいなし、犀星が打ち込む。その動きには曇りなく、まるで二人の体が一羽の鳥として舞い踊るように美しい。

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