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14 光の中の決意(4)
ふたりの躍動の全てを、玲陽の瞳が見つめていた。瞬きすら忘れたように見開かれた眼差しには、明らかな戦士の意志がある。
玲凛は握りしめていた刀の柄を見た。犀遠から託されたその刀は、彼女の誇りでもあった。悔しさに歯を食いしばる。無力は嫌だと、あれほど必死に身につけた力も、この局面では通じない。
「星!」
涼景の声が、刀を打ち据える音と重なる。犀遠の蹴り込みを腹に喰らって、犀星が戦いの輪から弾き出された。すぐさま、犀遠はその背を狙う。
「させるか!」
涼景が犀遠の体に肩から身を当てた。その勢いに一瞬ゆらめいたが、犀遠は倒れない。
間に合わない!
玲凛の顔に、絶望が走る。と、その想いを断ち切るかのような、風を裂く音。天から一本の戟が降ってきて、玲凛の前に突き刺さった。
「それ、使え!」
咄嗟に玲凛は振り返った。息を切らせた東雨が立っていた。東雨と交わしたやりとりが、まるで遥か前のことのように思われた。
「二度と、退かない!」
玲凛は戟を引き抜くと、咆哮と共に突進する。
涼景が体で犀星をかばった。もろともに打ちすえようとした犀遠の太刀を、玲凛の戟が弾き返した。身長をはるかに超える大ぶりの戟は、東雨が打倒玲凛のために選び抜いた逸品だ。腕力で劣る玲凛でも使い方次第で敵を制圧できる上、範囲も広く中距離で戦える強みがある。
東雨、あんた、いい趣味してるじゃない!
水を得た魚ならぬ、戟を得た玲凛は、目を輝かせた。遠心力を巧みに使い、続け様に強烈な攻撃を当てていく。
「ちょっと……やりすぎ」
玲陽が、玲凛の猛攻にかすかに動じる。動きを止めるにしては、あまりに過激な闘いぶりである。
その隙に、涼景は犀星と体制を立て直す。
「凛! 抑えるぞ!」
「おう!」
涼景の声に、三人が犀遠を取り囲む。続く乱撃で、犀遠の肉体はすでに危険だ。流血こそしていないが、内部の肉や骨は、自らが放つ攻撃の衝撃を受けて、傷ついているに違いなかった。その肉体が壊れても止まることをしない。たとえ傀儡を取り除き、本人の意識が戻ったとしても、肉体が破壊されていては、苦しんで死ぬだけのことだ。
涼景、犀星、玲凛。
無言の呼吸が重なった。三人の軌跡が交差する。
風が鳴って、犀遠の刀が犀星を襲う。自分が狙われることを心得ている犀星は、すんでのところで身を翻した。犀遠の動きは早さはあるが、緩急はない。見慣れてしまえば避けることも難しくなかった。
振り抜きざまにできた隙に乗じて、玲凛の戟が犀遠の足元をうち、跳ね上げた土が視界を奪う。涼景の太刀が交わせない角度で犀遠の手首を峰打ちする。だが、それでも犀遠は刀を手放さなかった。
犀遠を傷つけないように加減して戦うには限界がある。それでも、玲陽に繋ぐためにやりとげなければならない。
ぶつかり合う金属の音が幾重にも重なる。それらは互いに主張し、そして、呼応する。手のひらから足裏まで、全ての感覚が世界を捉え、一分の隙も許さぬ警戒を産む。
玲凛の戟が犀遠の太刀を止め、涼景が力で押し切り、犀星が急所を狙う。その噛み合った攻撃に、犀遠が片膝を折った。
犀星も、涼景も、玲凛も。
その姿は、玲陽の目には頼もしかった。玲陽は気持ちを沈め、自分がするべきことを強く思い描く。犀遠から傀儡を吸い出し、浄化する。それが、彼にできることであり、彼にしかできないことだ。彼がするべきことであり……迷ってはならないことなのだ。
しかし、と玲陽はわずかに眉を寄せる。
傀儡には傀儡の道理がある。かれらは自分に共感する者にのみ、取り憑く。この現状と合わせて考えるならば、今、犀遠を動かしている傀儡が何者なのかが見えてくる。
犀遠がその魂を憐れみ、心を寄せたということ。
そして、ここまでの強い力で犀星を狙っているという事実は、その魂が犀星に対して相当の恨みを抱いているということ。
犀遠が心を許し、同時に犀星を恨む者とは、誰だ?
最悪の想像が、玲陽をとらえていた。
玲陽が知る限り、その魂の正体は、一人しか、ありえないのだから。
犀星の産みの母親。玲心、ただひとりだ。
狂気を抱いて散った魂。
最悪の相手だ。
玲家の直系女子であり、生まれたばかりの犀星を自ら手にかけようしたその呪いの強さは、傀儡となって凝縮され、もはや、手のつけようがない。
自分の力で浄化できるものであるのか、あるいは自分もまたその力に飲み込まれ、意識を奪われてしまうのか。それはまさに命懸けと言うしかない行動だった。そして、もし、自分が倒れたとしたら…… 玲陽の決意にさざなみが立つ。わずかの恐れが、弱さになると知っていても、本能的な恐怖は抑えがたい。頬に、一筋、汗が流れた。
「今だ!」
涼景の声が飛んだ。
玲陽の心が、一気に引き戻される。自分につなぐために命をかける友の姿が、玲陽の心を不安から救った。
彼らに、応えたい。
それは願いであり、誓いだった。
涼景が間合いを詰め、犀遠の懐に飛び込む。肉薄した涼景の二本の太刀が、犀遠の大太刀を上に跳ね上げた。
斜めに振り上げられた玲凛の戟が、犀遠の手から太刀を吹き飛ばした。
犀遠の背後に回り込んだ犀星が、刀の峰でその背中を打つ。
涼景が倒れ込む犀遠の腕を引き倒すし、玲凛がその肩に飛び乗って、体勢を大きく崩す。犀星がさらに追い討ちをかけ、体当たりで犀遠を地面に押し倒した。涼景が上体まで崩した犀遠の背に馬乗りになって押さえつける。さすがに三人に抑え込まれては、犀遠の肉体が持たないが、まるで関節を砕き、筋肉を裂くような力で抵抗する。このままでは、物理的に犀遠の体が壊されてしまう。
「陽!」
犀星が叫ぶ。玲凛が犀遠の首を両手で捻り、頭部を固定した。よろめきながらも、玲陽が近づき、崩れ落ちるように犀遠のそばに身を投げ出す。犀星がすかさずその体を支え留めて、玲陽の胸に腕を回した。
それは、玲陽の心の迷いの最後のたがを静かに外す腕であった。
犀星が慕う母であろうと、容赦はしない。
玲陽は、覚悟した。
離さないで。
そう、乞うような玲陽の目に、犀星は即座に頷いた。
玲陽は地べたに這いつくばって体を低め、犀星の腕に体重を乗せる。傷が癒えきっていない玲陽には、傀儡喰らいはおろか、この姿勢に耐える力もない。それでも、彼の決意は変わらない。激戦での疲労があるというのに、犀星は揺らぐことなく、玲陽を抱き止める。その力は、何よりも玲陽を勇気づける。
犀遠はまだ、体を痙攣させるようにもがいている。体重をかけて頭を抑えている玲凛の手が震えていた。玲陽は一瞬、妹に微笑みかける。唇を噛み締め、玲凛は目を閉じた。
そうだ、見なくていい。ここから先は、地獄だ。
玲陽は犀遠の顎を掴み、口を開かせた。口内が切れて、歯茎から血も滲んでいた。たとえ傀儡を取り除いても、助からない予感があった。それでも、こんな姿のままに死なせるなど、玲陽には耐えられない。たとえ激痛にのたうつ最後となろうと、犀遠を犀遠のままに送りたい。目の前の変わり果てた姿ではなく、優しく自分たちを包み込んでくれた愛しい父として。
玲陽は途中まではゆっくりと、そして、最後は一思いに顔を寄せ、唇で犀遠の口を塞いだ。ぐっと舌を押し込んで、玲陽は喉の奥を吸った。
涼景が顔を逸らす。玲凛は目を閉じたままだ。そして犀星は、じっと全てを見届けていた。玲陽の思いも、犀遠の無念も、これから自分たちが向き合わねばならない現実からも、決して逃げない。逃げたくはない。静かな、その氷のように冴えた眼差しは、確かに強い意志を宿している。
心の中に動揺はある。だが、それは直接触れることのない、まるで鏡の向こうの景色だ。自分の姿であって、同時に幻にすぎない。感情は押さえつけるほどに激しく動く。だが、胸を開けば、そのまま受け流せる。そのすべを、犀星は身につけていた。
ありのままに、受け入れる。そして、静かに眠らせる。
腕を掴んでいた玲陽の指が、ぎゅっと力を込めた。それは、彼が何かを掴んだ合図だ。玲陽の目がそっと、開かれ、自分を見上げる。そして、ひとつ、しっかりと瞬きをする。それだけで、本能的に犀星は察していた。自分で起き上がることのできなり玲陽を、犀星はそっと引き上げた。犀遠から、玲陽の唇が離れる。と、引き離されるに従って、犀遠の喉の奥から、黒く濁った空気の塊が、ずるりと引き出されてくるのが見えた。それは、犀星の目にも、はっきりと。
地中から巨大な何かが這い出てくるような、低い唸りのような声が、庭中に響いた。声は犀遠のものだった。
玲陽は天を仰いだ。
黒く巨大な蛇のような塊が、犀遠の口から飛び出し、宙に弧を描いて、玲陽の喉へ吸い込まれていく。
自分の体よりも大きなその塊を、玲陽は苦しみに全身を捩らせながら受け入れる。
これが、傀儡喰らい……
犀星は、その光景を記憶に焼き付けた。
がくん、と激しく一度、それから断続的に、玲陽の体が跳ねた。
始まった。
犀星の目元が朱に染まる。
まるで、桶で汲み上げた泥水を飲み干すように、大量の黒い渦がずるずると玲陽の中に流れ込んでいく。見開かれた目に、涙が光った。最後の残滓まで飲み込んで、玲陽は口を閉じた。反射的に犀星は玲陽を抱え、その頭に手を添え、強く肩に押し付けて抱く。もう一方の手を背中に回し、玲陽の震えをそのまま自分の体で受け止めるように強く抱いた。
もう、後には退けない。
犀星はありったけの力を込めた。それでも、玲陽の体はさらに大きな力で内側から震えている。それは、玲陽の体内に宿った別の生き物が、脈動を刻むような振動だった。玲陽は声ひとつ上げない。ただ、見開いた目が、必死に何かに耐えていることだけはわかる。
飲み込んだが最後、浄化して消し去るか、身体がちぎれ飛ぶかのどちらかだった。
その瀬戸際で、玲陽が震えている。
腹の底が煮えるような恐怖が、犀星に襲いかかった。突然に全身が粟立ち、思考がスッと冷えて醒める。その感覚は、突きつけられた絶望に似ていた。
玲陽を失うかもしれない。
闇に落ちていく玲陽を、なすすべもなく見下ろすことしかできない情景が浮かぶ。
喉が軋んだ。
さらに体に力が入る。
心の中をのたうち回る、絶望という獣。押さえつけてはならない、と思いながら、ついには受け入れられない恐怖に視界を奪われる。
くらくらと、犀星の世界が回って、空の青が遠ざかる。
泣き叫びたいような、耳を塞ぎたいような、持て余した感情で犀星は混乱しはじめていた。このような時に、彼を救ってくれる玲陽は今、更なる苦悶の中に身を投じ、犀星の助けを求める声を聞くこともできない。
玲陽のいない世界は、そのまま、犀星のいない世界だった。
嗚咽とも呻きともつかない声が、犀星の唇から溢れた。
それは短く、鋭く、重たかった。
それでも、犀星は泣きはしなかった。今泣いたところで、それが無意味であることを、彼は知っていた。
玲陽を、自分を救えるのは、涙などではない。それよりも、もっと強く、確かに力を与えてくれるもの。
それは、意志。
震えていた犀星の目に、小さな光が宿る。それは玲陽からの救いではなく、自らの心の底から湧き上がってきた、鋭い熱のようであった。
「陽」
犀星は声を絞った。自分に言葉が残されていたことさえ忘れていた。
「陽!」
ただ、その名を呼ぶ。今の自分にできることは、それだけだ。いや、それが残されているではないか!
犀星の声に、玲陽の魂は何よりも敏感に反応する。
支配されて蠢く震えから、自らの意志で犀星に向かう力へと、玲陽の体は明らかに何かを掴もうとしていた。
「陽、ここにいる」
その声は、あまりに優しすぎた。
あまりに自然で、あまりに尊い救いだった。光だった。
玲陽はその声を、耳ではなく肌で聞いた。声を伝えてくるのは、振動ではなく感情であり、温もりだった。
内側から自分を破壊する力と、それを共に抑え、自分を守ろうとする力。どちらが勝るか、など、答えは明らかだった。
ああ、この人は私を愛しているんだ。
それは、天啓のように。
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