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14 光の中の決意(5)
愛の何たるかなどわからない。けれど、もしそれがあるとしたら、この存在を置いて、他にはないと感じる。
胸の中に、透き通る風が吹き抜けた。これは、目覚めだ、と、玲陽は思った。
魂を食い荒らすような痛みと苦しみの中で、確かに一筋の光が、彼に差し込んでいた。
玲陽は目を開こうと、瞼に力を込めた。
見つめたい。そして、微笑みたい。
全てが終わり、もう、怖れる必要はないのだと……
だが、その時、突如として、腹から喉へ、激しい痛みが立ち上った。
静かなはずの目覚めは、恐怖に刮目する瞬間にとって変わる。絶望の涙が、音もなく流れた。
「!」
玲陽は、犀星を振り払った。追い求めた犀星の腕が空を掴む。
「よ……」
声が潰れ、犀星は喉を抑えた。
目の前に座り込み、乱れた髪をそのままに、玲陽はじっと、動かなかった。纏う気配が、明らかに異常を告げていた。
ゆっくりと顔をあげて、玲陽は犀星の蒼い瞳を、睨みつけた。
玲陽の金色の瞳は、漆黒に塗りつぶされていた。白目までが、艶のない、黒。正気を失った、死人の瞳そのものであった。
それは、すでに玲陽が玲陽ではないという現実に他ならない。
傀儡が、玲陽から自分を奪ったことを、犀星は直感した。
犀星の中で、何かが砕け散った。
一人にはしない。
たったひとつ、そう、思った。
玲陽の唇がわずかに開く。何かを呟いたようだったが、犀星には届かない。
犀星は無防備に、玲陽に体を向けた。
玲陽の腕が、まっすぐに犀星に伸びる。彼は動かなかった。ただ、その姿勢のまま、じっと虚空を見つめていた。見るべきものは、そこにはないというように。
白い指が、犀星の喉に深くかけられた。それでも、彼は動かない。だが、蒼い目に灯る光は、消えはしない。
犀星はゆっくりと呼吸した。それはまるで、大きく動き出す前の、心の集中に近い沈黙。そして、その瞬間が訪れる。
指が喉に食い込んだ。同時に、犀星は玲陽の背中を抱き寄せた。犀星を掴んでいた玲陽は、すぐに逃れることができない。
犀星は、迷わず、深く、口付けた。
連れていけ。
彼は祈った。
陽、俺を連れていけ。おまえを一人にはしない。
とくん、と何かが鳴った。
ふっと、風が変わった。
世界が緩やかに裏返った。
暖かな気配がして、犀星は目を開いた。
何もない場所に、彼は立っていた。
光も、闇も、天も地もない。
空っぽな世界の中心に、彼が浮かんでいた。
気配を感じ、振り返って、犀星は息を吐いた。
陽。
まっすぐに自分を見つめて、玲陽が寄り添っていた。そっと犀星の手を取る。その手は、いつも犀星を励まし、傷を癒してくれたのだ。
星。
呼ばれたように感じたが、声ではない気がした。
それでもいい。声も言葉も、もういらない。ふたりはずっと一緒にいよう。かわす想いさえあればいい。
いきましょう。
玲陽の想いが聞こえる。
犀星は首を傾げた。
玲陽は微笑んだ。
私は、あなたと、いきたい。
犀星の涙が、静かに流れる。それは足元にぽたりと落ち、その一点から、世界に色が広がった。二人を中心として、緑の草が波となって大地を覆った。遠くからせせらぎのような微かな水音が響き、空には光が満ちた。風が円を描いて二人の髪を美しく閃かせ、小さな赤い花弁ひとひら、舞い落ちてきた。玲陽は手を掲げて、それを受け取った。また、次の風が吹いた。その激しさに、二人は身を寄せてわずかに目を閉じる。再び開いたとき、周囲を無数の花弁と芳香が包み込んでいた。曼珠沙華の花弁の花嵐が、空間を満たして全てを染めていた。渦巻く風の激しさの中で、二人はいつしか、しっかりと両手合わせ、硬くつないでいた。
突如、どん、と世界がひっくり返った。
再び目を開くと、真っ黒な風が音を立てて二人を飲み込んでいた。それはあらゆる光を殺す闇、すべての光が失せた、あの、死のまなこのように。
呆然として、犀星は腕の中の玲陽を見た。うっすらと開かれた玲陽の目は、煌めく金色を浮かべていた。
玲陽はそっと、犀星の背中に腕を回した。彼の身体は、暗い風の中で、やわらかく白い蛍光を放って、ほんのりと輝いて見えた。
新月の夜に、その体が輝く。
そうか、今夜は……
いつか聞いた話を、犀星はまぶたの奥で思い出した。
薄く色づいた唇が、どこまでも甘い微笑みを浮かべる。その眼差しは、惜しげもなく犀星にだけ与えられる祝福だった。
込み上げたものに任せて、犀星は玲陽を抱きしめた。玲陽もまた、犀星を引き寄せた。自分を求める玲陽のあたたかな腕は、犀星の心まで抱いているようだった。
黒い風が二人をなぶり、その風音の裏側から低くうねるような声がした。
『…………』
それは言葉であったのか、うめきであったのか、判然としない。ただ、一つだけ確かなことは、それがいかなる『存在』による、いかなる『呪い』であったとしても、犀星の選択を変えることはできないということだ。そしてそれは、玲陽も同じだった。
犀星は、目を見開いた。そこに宿るは強い意志。戦う決意に違いなかった。
玲陽は、目を開いた。迷いのない黄金が、輝いていた。
風が唸る。それに乗って、大地からいく筋もの黒く長い髪のような影が螺旋に飛び出し、次々に彼らの肌をかすめていく。
風の音で、耳が塞がれていた。
だが、今、彼らには声も言葉も必要なかった。
ただ、互いを託す、想いがあればそれでよかった。
光は、玲陽が与えてくれる。
力は、犀星が返してくれる。
それだけで、よかった。戦うことが叶う。
玲陽は犀星の肩に手を置いた。犀星はその手に自分の手のひらを重ね、もう一方の腕を玲陽の腰に回す。犀星の背中にあった腕に、玲陽は力を込めた。引き寄せ合いながら、ふたりは立ち上がった。
ふたりの体をひとまとめにして、黒い風の糸が絡みつく。しかし、彼らは倒れなかった。玲陽は犀星の腕に体を預け、重ねた手はそのままに、片腕をゆっくりと動かした。大きく、曲線を描いて、玲陽の指先が暗い風に白く輝く裂け目を走らせながら、高く掲げられる。切り裂かれた光の線の向こうに、青い空が見えていた。
『…………』
風の慟哭が、何度も波となって二人を押し流すように押し寄せた。
犀星は玲陽の全身を受け止め、揺るぐことなく立ち続けた。まるで、そうすることが、自分の全てであるように、玲陽と一体となって、支え続ける。
玲陽はすべてを預け、目を閉じた。
周囲に渦巻く変化した傀儡の闇は、己が力を上回る。
だが、たとえ一人で敵わぬ相手でも、玲陽のそばには犀星がいる。怖れることはない。
私たちは、一緒にいくのだから。
玲陽の柔らかい指が動いて、いくつかの印を軽やかに結んだ。最後の形のまま、斜めに振り下ろす。
指の軌跡が闇を裂き、大地を指したその刹那、ふたりの足元にまばゆい光芒が生まれ、それは闇もろともに二人を飲み込んで、高く天へと立ち上がった。
魂を解き放つ。ふたりの命を賭して、玲陽が結んだ力こそ、新月の光そのものだった。
完全なる闇も完全なる光も、盲目に違いない。
それでも、彼らに何かを見る目は必要なかった。
彼らに必要なのは、ただ、想いだけなのだから。
・
それは、二十を数える間の出来事だった。玲陽が傀儡を飲み込むのを、玲凛はしっかりと見ていた。そして、犀星の命をかけた口付けの後、あたりから、傀儡の気配が消えた。二人が見つめ合い、微笑む姿に、本当にすべてが終わったのだと感じた。
玲凛は、犀遠の上体を仰向けにして、膝の上に抱えた。
浅い息で、犀遠はわずかに目を開いた。身体は無理な戦いで傷んでいた。砕けた骨が内臓を傷つけ、外傷はなくとも、致命傷に至っているのは明らかだった。
玲凛は、戟を握っていたのと同じ手で、犀遠の頬を撫でた。
「私が小さいころ、よくこうして甘えさせてくれました。次は私の番です」
犀遠は瞼を上げて、玲凛を見た。それは紛れもなく、自分を愛してくれた『父』の顔であった。痛みは感じていないのか、犀遠は穏やかだった。
「侶香様!」
駆け寄ってきた東雨が、泣きながらその手を両手で包み、頬擦りした。
涼景の目元は腫れていたが、その目に涙はなかった。彼の右手が、今なお握る刀の柄で震えていた。
支え合いながら、犀星と玲陽が犀遠に身を寄せる。犀遠は、雲が晴れたような笑みを浮かべた。
唇が動いて、小さく優しい声が聞こえる。
「おまえたちは、もう、飛べるな?」
それは、問いかけという名の信頼。
犀星の手が、玲陽の膝を掴んだ。玲陽は黙ってその手を取った。そして、犀遠を見つめた。
「父上」
それは初夏の朝に聞いた、小鳥のさえずりのように清らかだった。
犀遠は、かすかに頷いたらしかった。
長い旅をしてきた風が、一瞬、庭に立ち止まり、また、吹きすぎていった。
開かれたままの犀遠の瞳に、今年最初の曼珠沙華が、静かに揺れていた。
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