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第8章 第1話(4)
「さぁて、そんじゃ俺も、そろそろ大阪戻る準備すっか」
「あ、はい。気をつけて帰ってくださいね」
「うん、ありがと。莉音くんも元気で」
「はい。達哉さんも、お酒、あまり飲みすぎないように気をつけてくださいね」
「だよね~。向こう戻ったら、こうやってスープ作ってくれる人もおらんし」
達哉はニッと笑って持っていた水筒を顔の横で軽く振った。
「これ、ほんとありがと。彼氏さんも飲んだことないはじめてんスープ、俺が一番乗りっちゅうことで大事に飲ませてもらうけん」
そして莉音がなにかを言うまえに背を向けた。
「じゃあね! タケ爺うまく説得して、彼氏さんとお幸せに! いい思い出、ありがとう」
昨晩とおなじように、後ろ手に手を振って来た道を戻っていく。その背中を、莉音はしばし見送った。それからゆっくりと、祖父の家に向かって歩き出す。
昨晩、達哉が酔いつぶれた理由も、スープを手渡したときの微妙な反応も、ようやく理解できた気がした。二日酔いで調子が悪そうなのに、このぐらいがちょうどいいと言った理由も。
あまり恋愛慣れしていない莉音でも、さすがにわかる。達哉は、自分に好意を寄せてくれていたのだ。
感謝のつもりが、かえって無神経な真似をしてしまった。
その口から、小さく吐息が漏れる。さんざんよくしてもらっただけに、不用意な己の言動を申し訳なく思った。とそこへ、通りかかった一台の車がスッと寄ってきて、すぐ横に停まった。
思わず身構えて顔を上げたところで、助手席側の窓が下りる。その途端、莉音は表情をゆるめた。
「アルフさん……」
「おはよう。どこかへ行っていたのかな?」
訊かれて、「はい、ご近所のお宅へ」と答えた。
ロックが解除され、乗車をうながされて素直に乗りこんだ。車内に満ちる、エアコンの冷気が心地よかった。
「浮かない様子だったが、どうかしたか?」
何気なく問われて、シートベルトを締めようとしていた莉音の手が止まる。傍らのヴィンセントを見やると、ややあってから視線を落とした。
「……あの、昨日僕と一緒にいた人、この近くの田中さんていうお宅のお孫さんなんです。小さいころ、おじいちゃんのところに来たときに、よく遊んでもらって」
莉音はポツポツと話し出した。
「料理教室の講師をしないかって持ちかけてくれたのが、役所の地域振興課に勤めてる、その達哉さんのお母さんでした。その関係でこの一週間、ずっと会場まで送り迎えしてくれてたんですけど、今日、お盆休みを終えて就職先の大阪に戻られるってことだったので、ご挨拶に行ってきました」
車を発進させて莉音の言葉に耳を傾けていたヴィンセントは、「そうか」と相槌を打った。それから黙って腕を伸ばし、莉音の頭をそっと撫でる。それ以上はなにも言わなかったが、彼はきっと、昨日のやりとりから、ある程度のことは気づいていたのだろう。莉音がいま、自己嫌悪に陥っている理由も含めて。
未熟な自分には、こんなふうに人の気持ちや物事をうまく察することができない。
ヴィンセントと恋仲になっていながら、自分が同性から想いを寄せられる立場になるとは思いもしていなかった。
スープの件も含めて、無意識のうちに期待を持たせるような言動をとってしまってはいなかったか。
寄せられた想いに応えることもできないのに、思わせぶりに振る舞ってしまったことが心苦しかった。
「大丈夫だ、莉音」
祖父の家が近づいてきたところで、ヴィンセントが不意に言った。
「実直で男気のある、気持ちのいい青年だった。彼にもいずれ、そのよさに気づいて好意を抱いてくれる、私にとっての莉音のような存在がきっと現れる」
達哉にも幸せな恋が訪れることを心から願いながら、莉音は「はい」と小さく頷いた。
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