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第9章 第1話(1)

 翌日、莉音はふたたび桂木の店、『Un Départ(アン・デパール)』を訪れていた。  前々日と同様、二階の個室に通され、そこで身支度を調えて待機する。用意されていた椅子に座ってみるものの、ひとりでいるとそわそわと落ち着かず、何度も立ち上がっては身だしなみを確認する、を繰り返していた。と、そこへ、部屋のドアがノックされた。 「は、はいっ」  莉音が返事をすると、ドアが開いた。 「莉音くん、支度どうかな?」  入ってきたのは、ヴィンセントの敏腕秘書にして義弟という間柄でもある早瀬だった。その後ろには、息子を抱いたリサの姿もある。夫妻は昨夕、今日のために東京から駆けつけてくれたのだ。 「早瀬さん……」  莉音は緊張のあまり半ベソ状態だが、その姿を見た夫妻は感歎の声をあげた。 「わあ、すごい! どこかの国の王子様みたいだね」 「莉音、キレイ! とってもチャーミング!」  手放しで褒め讃えられて、莉音はますますどうしていいかわからなくなった。 「あの……、あの、僕、変じゃないですか? この着かたで合ってます?」 「え? 大丈夫だよ? ちゃんと着れてるから」 「ほんとですか? 僕、こういうのはじめてで、どうしたらいいかよくわからなくて……」  心許なさそうに言う莉音に、早瀬はごめんごめんと謝罪した。 「そうだよね、慣れてないと戸惑うよね。ごめんね、気が利かなくて。着替えてるあいだはひとりのほうがいいかなと思ってはずしてたんだけど、一緒に手伝ったほうがよかったかな。でも大丈夫、ちゃんと上手に着れてるから」  言いながらも、首もとのアスコットタイを整えてくれる。莉音はいま、襟もとに同色の華やかな刺繍(ししゅう)が施された白のタキシードを身につけていた。  一昨日の夜、茉梨花に提案されたのが、この件だった。すなわち、身内を招いてウェディングパーティーしてはどうかと。 『所謂(いわゆる)、決意表明みたいなものかしらね。これからの人生を、ふたりでともに歩んでいきますっていう』  茉梨花に言われて、そんなことなど考えてもみなかった莉音は仰天した。 『スキャンダルに巻きこんじゃった罪滅ぼしっていうわけじゃないけど、あたしなりに考えたお祝いってことで、どう?』  衣装も含めた費用は、すべて茉梨花が出してくれるという。それはさすがに申し訳ないと辞退しようとしたが、茉梨花はそれを許さなかった。 『こういうのはね、ちゃんとしておいたほうがいいの。大切な人たちへの報告と感謝を伝えるって大事なことよ? そういうケジメは、きちんとしておかないと』  それにね、と茉梨花は付け加えた。 『このお店の名前「Un Départ」は、フランス語で「出発」とか「スタート」っていう意味なの。あらたな人生の門出に、これ以上相応(ふさわ)しい場所はないと思わない?』  恋人のセンスのよさを自慢するような得意げな説明だったが、意味を知ったことで莉音の気持ちに変化が生じた。  たしかに、あらたな一歩を踏み出すのに相応しいきっかけになるかもしれない。  今回の件で、自分の中にある将来への目標も、周りの人たちへの思いも随分変わった。ケジメという意味でも、きちんと表明することで、さらなる決意に繋がるかもしれないと思った。 『覚悟、決まったみたいね』  問われて頷いた莉音に、茉梨花は言った。それならば明日中に祖父母を説得して、ヴィンセントとのことを認めてもらえ、と。 『お披露目(ひろめ)パーティーはお店の定休日である明後日に執り行うから、そのつもりでいて。あたしもアルフも仕事があるし、いつまでも大分(ここ)にはいられない。いい、ハニーちゃん。決死の覚悟で臨むのよ?』  もっとも晴れ姿を披露すべき人たちを必ず会場に連れてくるように。茉梨花にそう命じられ、莉音は昨日、ヴィンセントともに祖父母に頭を下げ、自分たちの関係をようやく認めてもらうことができた。だが、あまりにも話が急展開すぎてなんの心構えもできないまま、今日という日を迎えてしまった。

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