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第10章 第1話(1)

 湯船に浸かってバスソルトの爽やかな柑橘系の香りに包まれた莉音は、ホッと息をついた。  今日一日の出来事を思い返すとあまりにも濃密で、とても現実にあったこととは思えなくなる。だが、湯船から出した左手の薬指に光るものが、夢ではなかったことをはっきりと物語っていた。  内輪だけの簡単な食事会。茉梨花からそのように聞かされていたウェディングパーティーは、蓋を開けてみれば本格的な結婚披露宴と、なんら遜色のないものとなっていた。なんなら冒頭に、人前式のようなものまで組みこまれていた。  記念撮影もあったので、莉音がヴィンセントとともに婚礼衣装を身につけることは納得できた。その撮影をしてくれるのが芸能関係のプロのカメラマンであったことも、茉梨花の職業柄、そういうものなのかもしれないと思った。桂木が自分たちのために特別メニューで華やかな演出をしてくれたことにも感謝しかなかった。だが、祖父母や東京から駆けつけてくれた早瀬夫妻、(ちか)しい人々と美味しい料理を堪能して、合間に挨拶をするだけと思っていた莉音の想定は見事にはずれた。  レストラン一階の奥は、庭のほうへ張り出したスペースがガラス窓に囲われたサンルーフ調のテラス席になっており、普段開放されている扉を閉めることで、手前の一般席とは仕切れる造りになっていた。  そのテラス席が本日のメイン会場で、莉音とヴィンセントは茉梨花の指示どおり、入場の合図を待って、開かれた扉の中へ踏み入れた。  美しい音楽が流れ、たくさんの花と飾り付けがされた華やかな空間。  莉音とヴィンセントの席は、会食用の大きなテーブル席とは別の最奥に並んで座るよう(しつら)えられており、驚いたことに、月島リゾートからブライダルスタッフが司会者として呼ばれていた。 そのプロの進行によってヴィンセントと莉音の略歴や馴れ()めが紹介され、友人代表として早瀬と茉梨花によるスピーチが行われた。  場慣れしている早瀬と茉梨花のスピーチはユーモアたっぷりに場を沸かせ、飛び入り参加した女子高生の三人以外にも、今日の準備に(たずさ)わってくれたスタッフたちが同席してくれたため、思っていたよりずっと大人数で、賑やかな会となった。  なにより、いちばんの見せ場となったのが、アメリカにいるヴィンセントの実母からのメッセージビデオだった。  昨晩、早瀬とリサが宿泊しているホテルからわざわざ連絡を取って、ビデオ通話を録画してコメントをもらってくれたのだそうだ。それを早瀬が翻訳して文字起こししたものを茉梨花のスタッフが急遽編集して、体裁を整えてくれたらしい。 『アルフレッド、それから莉音、本当におめでとう。こんな日がくるなんて、夢のようだわ。リサが生まれてすぐのころ、わたしはあなたたちふたりの子供を抱えて独りで生きていく道を選んだけれど、そんなわたしを見て育ったせいか、アルフ、あなたは小さなころから少しも手のかからない、聞き分けのいい子供だったわね。勤勉で真面目で努力家。妹の面倒もよく見る、親思いの優しい息子だった』  画面越しにはじめて見るヴィンセントの母ヘレナは、明るいアッシュブラウンの頭髪にヴィンセントとおなじ、あざやかな青い瞳をした優しそうな女性だった。その面差(おもざ)しは、少しふっくらとした印象ではあるものの、リサが年を重ねたらこんなふうなのだろうと思わせる、たしかな血の繋がりを感じさせた。 『大学へは奨学金(スカラーシップ)で進学をして、在学中に(おこ)した事業でこんなにも大きな成功をおさめてる。そのお金でリサを大学にまで行かせてくれた。アルフ、あなたは本当にわたしの誇りよ。だけどね、ひとつだけ心配なことがあったの。あなたはいつも、たったひとりで頑張りすぎてしまうでしょう?』  高い能力を備えているがゆえに他者を頼ることがなく、自分ひとりで抱えこんでしまう傾向がある。その危うさをヘレナは気にかけていた。 『経営者として己を厳しく律する心がけは立派よ。だけどつねに張りつめた状態でいつづければ、いずれその精神は疲弊して摩耗してしまう。重い責任を背負って難しい決断をしつづける中でふと羽を休めたいと思ったとき、あなたがやすらげる場所はどこにあるのだろうとずっと気掛かりだったの』  愛する我が子を案じて思いやるその顔が、愁いに沈んだ。 『でも、つい数日前、そんなあなたが突然訪ねてきたときは、本当に驚いたのよ。しかも生涯をともにしたい相手ができたから認めてほしいだなんて、思いつめた様子で懇願するんだもの』  青天の霹靂(へきれき)もいいところ。白昼夢でも見ているのかと思ったわとヘレナは苦笑した。

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