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第10章 第2話(1)

 入浴を終えた莉音が浴室を出ると、その気配に気づいたヴィンセントが顔を上げた。  バスローブ姿でソファーでくつろいでいるように見えるが、その手もとにはタブレットがある。莉音を待つあいだ、仕事関連のメールか書類をチェックしていたのだろう。  莉音が近づくと、ヴィンセントはタブレットをわきに置いて座りなおした。その横に、莉音も腰を下ろす。 「ゆっくりあったまれたか?」  穏やかな声で問われて、莉音は「はい」と(こた)えた。 「バスソルトの香りが爽やかで、すごく癒やされました」  言うなり、肩を抱いて引き寄せられる。 「本当だ。とてもいい香りがする」  耳もとで低く言ってこめかみにキスをしたヴィンセントは、身を離すと「なにか飲み物は?」と尋ねた。 「あ、じゃあ、お水を」  自分で取りに行こうとした莉音を制して、均整のとれた長身が身軽く立ち上がる。恋人の好意に甘えてその場に(とど)まった莉音は、ソファーの背にゆったりと身を預けると、あらためて部屋全体を見渡した。  高級感溢れる調度にひろびろとした空間。リビングにはキッチンが併設されていて、反対奥にはキングサイズのベッドが二台置かれた寝室もある。  莉音とヴィンセントはいま、由布(ゆふ)市内にある月島リゾートホテルのスイートルームにいた。ウェディングパーティーを企画した時点で、茉梨花がふたりのために部屋を用意してくれていたのだという。  なにも聞かされていなかった莉音は驚いたが、パーティーが終わってほどなく到着した専用リムジンに乗せられて、そのままホテルに直行することとなった。なにも準備してきていないので、着替えがないとあわてたものの、それもすべて手配済みだという。祖父母は早瀬が自宅まで送ってくれるとのことで、皆に笑顔で送り出されての突然の小旅行となった。  ウェディングパーティーの件もそうだが、ここ数日、いろんなことが突然起こりすぎていて頭が追いつかない。なんだか夢の中にいるようだと吐息が漏れた。 「どうした? 疲れたか?」  キッチンから戻ってきたヴィンセントに心配そうに聞かれて、莉音は口許に笑みを浮かべると、いいえ、とかぶりを振った。 「まだちょっと、実感が湧かないだけです。今日一日、夢みたいだったなって思って」 「たしかに、今日の莉音は夢のように美しかった」  恋人のストレートすぎる讃辞に、莉音は頬を染めた。 「それならアルフさんだって、すごく素敵でした」  言いながら、恥ずかしくて(うつむ)いてしまう。笑いながら隣に座ったヴィンセントは、手にしたペットボトルの封を切ると、一緒に持ってきたグラスに注いで莉音に手渡してくれた。  礼を言って受け取った莉音は、ひとくち含んで目を瞠る。渡されたグラスの中身は、ただのミネラルウォーターではなく、レモンの風味が口の中にひろがるフレーバーウォーターだった。 「わ、すごく美味しい」  思わず呟くと、ヴィンセントは、それはよかったと目もとをなごませた。  冷たい水で喉を潤した莉音は、ふたたびホッと息をつくと、引き寄せられるままヴィンセントの肩口に頭を預けた。  一昨日の夜再会してから、こんなふうにふたりっきりの時間を過ごすことがなかったので、なんだかドキドキしてしまう。考えてみたら、祖父母が上京して以来、ふた月近くも触れ合っていなかったのだと、いまさらながらに思い至った。 「やっぱりまだ、夢の中にいるみたいです」  恋人に身をもたせかけたまま、莉音はポツリと言った。 「今日のウェディングパーティーも夢みたいだったけど、こんな素敵なホテルの部屋でアルフさんと過ごしてるなんて」  言ってから、あらためて顔を上げて傍らの恋人を見る。 「あの、茉梨花さん、すごく無理させちゃいましたよねっ? それから桂木さんも」  勢いこんで訊かれて、ヴィンセントはわずかに目を瞠った。 「だって、ウェディングパーティーも一昨日の夜決まったばかりだったし、レストランだって、昨日も通常どおり夜まで営業してたのに」  準備期間もないまま、あれだけの用意をするのはどれほど大変だっただろうと思う。閉店後に会場を整えて、考えたメニューに合わせた食材の手配もして、スタッフを揃えつつ婚礼衣装の用意までして。  驚いたことに、ウェディングケーキまでもが、ちゃんと用意されていた。そのうえで、この部屋の予約もしてくれていたのである。いくら茉梨花が有名な人気モデルで、レストランを経営する一流料理人の恋人がいて、月島リゾートの社長令嬢だからといって、相当の力技(ちからわざ)だったに違いない。

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