48 / 50

第48話

閉まった個室の中、おれは抱きしめられていた。振り払って逃げるべきなのに、恐怖で体が動かない。 「顔を合わせるのは初めてだよね。はぁ……こんな可愛い顔なのに男の子の匂いがする…… 」 愛おしそうにこちらの頭を撫でながら首元を吸われ、「いい匂い」と恍惚とした声で感想を述べられればゾワゾワと鳥肌が立った。 『やめて』『助けて』と言いたくても声が喉でつっかえて出てこない。スマホで助けを呼ぼうにも、荷物は全部安達に預けてしまっている。 「初めておすすめに流れてきた時から思ってたんだ。綺麗な子だなって。僕ノンケなのに、サクラちゃんの体があまりにも綺麗だったから……」 腰を抱いた腕がすっと脇腹を撫で上げて、「ひっ」と引っかかっていた声が漏れた。 「怖い?大丈夫、優しくするよ。……ああ、僕本当にサクラちゃんに触ってる…… 」 ボソボソした話し方とナメクジのようにゆっくり体を這う手が余計に恐怖を与えてくる。ピッタリと引っ付いた体にゴムボールのような感触の『何か』が押し付けられてどんどん恐怖が体を支配する。その『何か』を考えたくない。考えてしまったらまた嫌なことを思い出してしまいそうで、必死に「やめてください」と言おうとしたが、口から出るのはか細い声のなり損ないだけだった。 「サクラちゃん、もっと顔を見せて」 
そう言って顎に指先がかかる。ぐいっと上を向かされそうになった、その時——— 「朝倉大丈夫かー?先生に体調崩したって連絡したらこっち来るってよ。俺ら先帰れって言われたけど、女子だけ帰して残ろうか?」 ———外から神崎の声がして、意識がそっちに向いた。閉まっている個室の鍵に腕を伸ばし、口を開けて…… 「……たす、けて……」 絞り出したその声に、神崎は足早に個室の前まで来て……中に二人いるのがわかると「何やってんだおっさん!」と驚いたような大声を上げた。 バンッ!と跳ね飛ばされ、男は外に逃げ出した。「待てこら!」と神崎はそいつを追いかけ、遠くから「そいつ捕まえろ!」という声も聞こえてきた。 一方跳ね飛ばされたおれはタンクに背中をぶつけて、肺から一気に空気が押し出されて咳き込んでいた。解放された安心感からか、恐怖が後から来たからか足が震えて立ち上がれない。しゃがんだまま自分の手を見つめて、無事だったことが理解できると涙が込み上げてきた。 + 先生が来た後、一緒に警察署に向かって調書を取ったりして、親にも連絡が行ったらしく到着を待った。『SNSで見かけた相手と勘違いして犯行に及んだ』ということで調書を取ってもらい、ほんの少しだけ罪悪感が生まれた。勘違いじゃないのに。自分が裏アカウントを運営しなければ、あの男も人生を歪ませずに済んだかもしれない。 そんなことを帰りの車の中で考えて……助手席で流れる夜景を眺めながら口を開いた。 「母さん。今日のこと、姉ちゃんに言った?」 「言ってない。お姉ちゃんあと二ヶ月でお式挙げるし、玲央くんとの事があって逆に危ないと思ったから言ってないの 」 「ああ……そりゃ危ないか 」 おれが不登校になってから、理由を知った姉が玲央先輩を殴ったらしい。らしいと言うのは謝罪に来た玲央先輩のお父さんから聞いた話だからで、姉も玲央先輩も、おれには何も話さなかった。だから言わないというのは本当に正しい。 ……のだが…… 「なんかどこからか聞きつけてくる気がするんだよね…… 」 「ああ……お母さんちょっとわかるわ 」 車を運転する父は何も口を挟まない。二度も息子が性被害に遭っているのだから何を言えばいいのかわからないのかもしれない。 「ご飯食べに行く?確かこの辺ファミレスあったわよね。お父さんカーナビつけて 」 「ああ……」 「ごめん、いい。ちょっと今、食欲無いから 」 昼間のことが頭を過ぎり、手が震える。握り込んで抑え込もうとしても「サクラちゃん」と耳鳴りがして、抱き付かれた時の生ぬるい温度がリフレインする。深呼吸しても気持ち悪くて上がってきそうなそれをお茶で喉の奥に流し込んだ。 + 「今日は色々あって疲れたでしょ。お母さん達近くのホテルに泊まるから、何かあったら連絡しなさいね 」 「うん 」 アパートの前まで送ってもらい、車を見送って部屋の前を見ると…… 「……お、帰ってきた 」 汗だくの片桐先輩がしゃがんで、もう八時前だというのにおれの帰りを待っていた。服装は制服ではなくノースリーブとチノパンで涼しげだ。 「連絡しても繋がんねえし、春樹のクラス迎えに行ったら安達だっけ?そいつが警察行ったって言ってたし……。まあ何にせよおつかれ。悪いけどシャワー貸してくんね?」 「……いいですけど 」 鍵を開けて中に入ってもらい、給湯器のスイッチを押す。片桐先輩は「サンキュ」とこちらの頭を撫で、扉の向こうに消えた。 「……何も聞かないんですね 」 「んー、聞いた方がいい?」 「……先輩が上がったら、ちょっと話したいです 」 扉越しに会話をして数秒。急にガラッと引き戸が開いて脱衣所に引っ張り込まれた。 「春樹も汗かいてるし、一緒に浴びようぜ 」 昼間とされたことは大して変わらないのに、相手が片桐先輩というだけで何故か嫌悪感はそこまで感じなかった。

ともだちにシェアしよう!