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第3話 この部屋でしか生きられない

今日もまた一つ、任務を完了させた。 今夜の“ルカ”は、成人した青年の設定。スマートで艶っぽく、知的な隠し味を持つ魅力で、ターゲットと対等に会話を重ねる役だった。酒の席もあった。 ターゲットは年上の政治家。手が早く、口も悪い。だがルカは、そんなものには一切動じない。むしろ余裕すら見せて、ターゲットの懐へと巧みに入り込んだ。 「さすが、ルカ。完璧だったわね」 「お前、ホントにまだ入隊して一年経ってねぇのかよ……新人の域超えてんだろ」 任務後、控室で先輩スパイたちが笑いながらエリスを褒めてくれた。誇らしい気持ちは、確かにある。スパイとして、自分はちゃんと「役に立って」いる。 だけど。 私室に戻り、上着を脱ぎながらエリスはふと立ち止まった。 壁にかかる鏡に映ったのは、“ルカ”の余韻を残したままの自分── 化粧がわずかに残った唇、乱れた前髪、どこか他人のような目つき。 「……僕は、これでいいの?」 ぽつりと漏れたその言葉が、空気を震わせた。 エリスは軍人の家に生まれた。兄が三人。誰もが優秀で、家名を背負う誇りとして育てられた。幼い頃から銃を握り、格闘術を学び、父の背中を追い続けてきた。 「僕も、いつか軍に入って、国を守りたい」 小さな夢だった。けれど、それは本気だった。 あの日までは。 十二歳でオメガと判明した日、世界は音を立てて崩れた。 「オメガ性は、我が家の汚点だ。陰で活躍できる場へ行かせるだけ、感謝しろ」 誰よりも認めてもらいたかった父、目を背けられた。 だからこそ、エリスは色任務課でも必死に努力した。誰よりも正確に情報を読み取り、誰よりも演じ、誰よりも冷静であろうとした。 そして今日も、完璧に任務を終えた。 それなのに。 「どうして……僕は、こんなに……」 エリスはベッドに倒れ込む。身体が重い。アルコールの残る胃が痛む。 けれど何より、心が苦しい。 枕に顔を押し当てた瞬間、こぼれた。 ぽろ、ぽろ、ぽろ── 涙が止まらなかった。 嗚咽を殺しながら、エリスは枕に顔を埋め続けた。 濡れていく枕の感触が、まるで「泣いてもいい」と言ってくれているようで、また一層苦しくなった。 「僕は……軍人になりたかっただけなのに」 どれだけ任務を成功させても、どれだけ褒められても、あの日、軍服姿の父に憧れた“少年の夢”は、もう戻ってこない。 ──明日もまた、“ルカ”として演じなければならない。 “エリス”は、この部屋の中でしか生きられない。 静かに、涙の音だけが夜を満たしていた。

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