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第8話 気づかない胸のざわつき
ある日の訓練場の後。
模擬武器を置いたエリスは、汗を拭いながら訓練場を後にする。次の休憩時間を使って彼が向かうのは、武器庫でも浴場でもなく、小さな学習室だった。
誰もいない机にノートを広げ、地理や経済の教本を開く。時折眉を寄せて難しい問題に黙り込みながらも、一つひとつ自分のペースで飲み込んでいく姿は、訓練時の真剣さと同じだった。
その様子を、グラントは一歩離れた通路の陰からぼんやりと眺めていた。
(相変わらず真面目なやつだな)
戦闘の技術だけでは生き残れない。戦場では地形、補給線、戦略、そして敵国の文化や動き──すべてが命を分ける要素となる。その重要性を、誰よりも若いエリスがすでに理解している。
(…お前は、どこまで伸びるんだろうな)
口に出すことはないが、グラントの胸の奥にわずかな誇らしさが灯っていた。
*****
エリスとグラントがバディを組んで二年。
戦術も知識も着実に力をつけ、何よりあの負けん気の強さと冷静な判断力。横に立っていても頼もしい、とすら思うことがある。
(あいつは……俺が初めて見つけた才能だったんだ)
だからこそ、組んでいる時は自然と指示を任せたり、背中を預けることが増えた。だが、すべての任務で常に一緒に動けるわけではない。
その日は、エリスは別の小隊に同行して遠征に出ていた。
夕暮れどき、任務を終えた兵士たちが帰還ゲートから続々と戻ってくる。肩に怪我を負った者、泥だらけの者、仲間と笑いながら歩く者たちの中に──いた。
エリス。
そしてその隣には、年上の兵士がにこやかに肩を組んでいた。
「お前、なかなかやるなぁ!おかげで助かった!」
「ちょっ、もう!やめてよ!頭ぐしゃぐしゃにすんなって!」
「ははっ、よし、今日は奢ってやる!飯食いに行こうぜ!」
頭を撫でられ、ぐしゃぐしゃにされながら、エリスは小さく笑った。頬がふわりと赤く染まり、楽しげに見上げるその表情は、普段グラントの前では決して見せないものだった。
遠巻きからそれを見ていたグラントの足が、ふと止まる。
(……何、笑ってんだ)
(あんな顔、俺の前じゃ見たことないのに)
胸の奥に、奇妙なざわつきが広がる。自分でも理由がわからない。怒っているわけではない。ただ、ずっと見てきた。誰よりも早く、エリスの底知れぬ強さとひたむきさに気づいたのは、自分だったのに。
「……なんで、他のやつには」
呟きは風にかき消される。口の中に、何か苦いものが残るような感覚。
目を逸らして歩き出すと、その背中に兵士たちの笑い声が重なる。
(……別に、どうでもいい)
否定のようにそう思いながらも、指先に力が入る。
気づかれない感情が、ゆっくりと、確かに芽吹いていた。
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