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第9話 守りたい、強さの裏側

あれから一年が経った。 休憩のたびに拳を交えた日々は、いつの間にか“当たり前”になり、言葉より先に身体が動くようになった。 任務中でも、言葉は交わさずとも、一度動き出せば、刃の軌道も、射線の誘導も、まるで打ち合わせたように噛み合う。 「……すっかり板についたな、あの二人」 そんな声が、部隊内でも自然に漏れるようになっていた。 だが、その評価の影で、エリスに向けられる視線には、まだ、“過去”の影が、色濃く残っていた。 * ある日、隣国との共同訓練。 形式上は「友好」として、互いの連携を深める目的で実施されたものだが、実態は互いの力を測るための冷たい戦争だった。 その“時”は、熾烈な戦闘訓練が続いたあと、休憩中の一幕だった。 「おい、あれ…例の色任務課出身ってやつだろ?」 「まじか。あんな顔して、夜はじじい相手か?うぇっ」 「オメガだろ?クスクス…気持ちよけりゃ関係ねーんじゃね?」 「お〜こっち睨んできた、怖ぇ〜。悪いけど、そんな目で誘っても相手出来ねぇわ」 にやにやと顔を寄せ合いながら、あからさまな嘲笑と侮蔑が浴びせられる。 エリスは冷ややかな翡翠の目で睨み返したが、彼らの下卑た言葉に反論しなかった。 どこか、もう慣れてしまったような、諦めにも似た表情で。 「──おい」 低く鋭い声が割って入った。 一歩、重たい軍靴の音が近づく。 「あ?」 「今、何を言った?」 その黄金の眼差しは、真冬の氷よりも冷たく鋭い。 グラント・アイゼンベルク。あの“鉄鬼”が、無言の威圧を纏ってそこに立っていた。 「発言を撤回しろ。ここは訓練の場だ。下らんお喋りがしたいなら、自分の国に帰れ」 彼が一睨みしただけで、他国の兵士たちは、へらりと笑いながら気まずげに目を逸らし、肩をすくめて誤魔化すように持ち場へ戻っていった。 静けさが戻った空間で、エリスは一言も発さず、ただじっと地面を見ていた。 * 夜。 兵舎内の事務スペース。簡素なテーブルに並んだ報告書を、二人は黙々と書いていた。 「……」 「……」 ずっと静かだった。だがエリスがペンを止めると、ぽつりと問いかけた。 「……まだ、僕は、軍人になれてない?」 グラントは手を止め、エリスの横顔を見た。 「……」 「昔、グラントも言ったでしょ。『“色”使って成り上がったんだろ』って」 「……ああ」 「今でも、そう思ってる?」 少しの間があって、エリスは自分から語り出した。 淡々と、ただ真実を話すように。 「僕は、軍人の家に生まれて、兄さんたちと一緒に剣を握って育った。父の背中を追いかけて、いつか戦場で誰かを守れる存在になりたかった」 「でも、オメガだって分かった時から、急に全部変わった。父にも、失望された」 「それでも、軍に残してもらえたのは…“スパイ”としてだった。身体を使って、情報を取る仕事」 少し、息を呑むような空気が流れた。 「……でも、ほんとに誰かと寝たことなんて、ない。ただ、演じてただけ。媚びて、酔わせて、誘って、逃げて」 「本当は、軍人として、この手で、知識で、国を守りたかった。…今でも、それしか、考えてない」  言い終えると、またペンを取って報告書に向かおうとしたエリスの手を、グラントがそっと押さえた。 「……お前は」 低く、でも優しい声だった。 「立派な軍人だ。少なくとも、俺はそう思ってる」 エリスの手がぴくりと震えた。 「最初、馬鹿みたいな偏見で見た。……悪かった。謝る」 「けど今は違う。お前がどれだけ努力してきたか、全部見てきた。座学も、剣術も、戦術も、全部」 「お前ほど、自分に正直で、まっすぐな奴はいない」 エリスの頬が揺れる。顔を伏せ、唇を噛み、震える肩を隠すように俯いた。 「……ありがと」 小さな声に、涙のにじみがにじむ。 グラントは、添えた手に力を入れる。 「……俺は、お前の味方だ。これからも、ずっと」 一瞬、エリスがこちらを見上げる。その瞳に、静かな涙と、揺れる光が宿っていた。 「……そんなこと言わないでよ」 「ん?」 「……少しだけ、嬉しすぎるから」 その夜、二人の間に流れる空気はどこまでも優しく、どこかくすぐったいほどに近くて遠かった。 距離はほんの少し。 でも、確かに、一歩、心が寄った夜だった。

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