21 / 45
第20話 目覚めのそばに
医務室は夜の静けさに包まれていた。
ベッドに横たわる青年の呼吸は、解毒剤のおかげでようやく穏やかになっていた。耳には殴打の痛々しい傷を覆うように白いガーゼが貼り付けられている。
その傍には、グラントが簡素な椅子に腰をかけ、ただ静かに、目覚めを待っていた。
右腕には、赤黒く滲む噛み跡──強く食い込んだ歯形が残っている。
それは、エリスを医務室まで運ぶ道中。
溢れ出すフェロモンに当てられ、理性を必死に保とうと、肉を喰いちぎるほど噛んだ証だった。
エリスの表情が脳裏をよぎる。
頬を紅潮させ、息苦しげに喘ぎながら、涙に濡れた瞳とそれを覆う潤んだまつ毛。
熱に浮かされた唇は少しだけ開いて、ぬらぬらと濡れていた。
「……っくそ」
シャツの裾から露わになった白く柔らかい太腿。
肌から香る、陽だまりに似た優しい、それでいて蜜のように甘い匂い。
男を駆り立てる要素をこれでもかと揃えた姿で、あの獣のような権力者に汚されようとしていた。
(こんなにも純粋で、誠実で、国のために尽くそうとするやつを…)
なぜ、何も知らない他人が身を穢そうとするのか。
怒りと焦燥と、無力だった自分への苛立ちが、同時にグラントの胸を満たしていた。
「……」
気づけば拳を握りしめ、骨が軋む音がした。
その時、
「……ん……」
微かにシーツが揺れた。
「……エリス」
グラントが顔を上げたその瞬間、
薄く開いた緑の瞳が、ぼんやりとこちらを映した。
「……グラント…?」
「ここは医務室だ。もう、大丈夫だ」
ふぅっと息を吐くエリス。
虚ろな瞳をこちらに向けながらも、薄く唇を動かした。
「……リアン…子供たちは…?」
(…やっぱりお前は、自分のことじゃないんだな)
グラントは小さく息を吐いて、口を開いた。
「全員、保護した。もちろんリアンも。お前が仕込んだ装置で、データも揃った。任務は……成功だ」
「……よかった……」
ぽつりと呟く声には、安堵の笑みが少しだけ灯っていた。
だが、シーツの上に置かれた手は、小刻みに震えていた。
(絶望に飲まれかけ、怖かっただろうな)
グラントは黙って、その手の上にそっと自分の手を重ねる。大きな掌が、震える指をしっかりと包み込んだ。
五年前、
初めてエリスに会った時、つい口走った言葉を思い出す。
『男娼あがりか?』
軽蔑の色を込めて吐き捨てた、あの時の自分を殴り飛ばしたくなった。
与えられた役割を、どんなに心が擦り減ろうと、従順に全うし続ける真面目さ。
家から追い出されても、誰にも頼らず偽りを貫いた十三歳のエリスを──俺はあの時、何も知らなかった。
そのすべてに、改めてグラントは敬意を覚えた。
そして、愛しさも。衝動のように込み上げる。
グラントは無意識に身を乗り出して、エリスの額に…
そっと、キスを落とした。
「……っ」
微かに震えた気配。
エリスの睫毛がふるふると揺れた。
「な……にっ……」
掠れた声で驚いたエリスは、この空気を誤魔化すように、ふいっと顔を逸らし、窓の方を見たまま呟く。
「……っなんできたの」
その問いに、グラントはしばらく黙った。
そして、エリスの手をぎゅっと握り込んだまま、低く、真っ直ぐに答えた。
「……心配だったんだ」
沈黙が流れた。
それ以上、エリスは何も言わなかった。
ただ微かに、唇が震えたまま、視線を窓の外に預けていた。
──ずるい、そんなの。
……期待させないで。
エリスの胸の奥に、消えない想いが静かに広がっていった。
ともだちにシェアしよう!

