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第20話 目覚めのそばに

医務室は夜の静けさに包まれていた。 ベッドに横たわる青年の呼吸は、解毒剤のおかげでようやく穏やかになっていた。耳には殴打の痛々しい傷を覆うように白いガーゼが貼り付けられている。 その傍には、グラントが簡素な椅子に腰をかけ、ただ静かに、目覚めを待っていた。 右腕には、赤黒く滲む噛み跡──強く食い込んだ歯形が残っている。 それは、エリスを医務室まで運ぶ道中。 溢れ出すフェロモンに当てられ、理性を必死に保とうと、肉を喰いちぎるほど噛んだ証だった。 エリスの表情が脳裏をよぎる。 頬を紅潮させ、息苦しげに喘ぎながら、涙に濡れた瞳とそれを覆う潤んだまつ毛。 熱に浮かされた唇は少しだけ開いて、ぬらぬらと濡れていた。 「……っくそ」 シャツの裾から露わになった白く柔らかい太腿。 肌から香る、陽だまりに似た優しい、それでいて蜜のように甘い匂い。 男を駆り立てる要素をこれでもかと揃えた姿で、あの獣のような権力者に汚されようとしていた。 (こんなにも純粋で、誠実で、国のために尽くそうとするやつを…) なぜ、何も知らない他人が身を穢そうとするのか。 怒りと焦燥と、無力だった自分への苛立ちが、同時にグラントの胸を満たしていた。 「……」 気づけば拳を握りしめ、骨が軋む音がした。 その時、 「……ん……」 微かにシーツが揺れた。 「……エリス」 グラントが顔を上げたその瞬間、 薄く開いた緑の瞳が、ぼんやりとこちらを映した。 「……グラント…?」 「ここは医務室だ。もう、大丈夫だ」 ふぅっと息を吐くエリス。 虚ろな瞳をこちらに向けながらも、薄く唇を動かした。 「……リアン…子供たちは…?」 (…やっぱりお前は、自分のことじゃないんだな) グラントは小さく息を吐いて、口を開いた。 「全員、保護した。もちろんリアンも。お前が仕込んだ装置で、データも揃った。任務は……成功だ」 「……よかった……」 ぽつりと呟く声には、安堵の笑みが少しだけ灯っていた。 だが、シーツの上に置かれた手は、小刻みに震えていた。 (絶望に飲まれかけ、怖かっただろうな) グラントは黙って、その手の上にそっと自分の手を重ねる。大きな掌が、震える指をしっかりと包み込んだ。 五年前、 初めてエリスに会った時、つい口走った言葉を思い出す。 『男娼あがりか?』 軽蔑の色を込めて吐き捨てた、あの時の自分を殴り飛ばしたくなった。 与えられた役割を、どんなに心が擦り減ろうと、従順に全うし続ける真面目さ。 家から追い出されても、誰にも頼らず偽りを貫いた十三歳のエリスを──俺はあの時、何も知らなかった。 そのすべてに、改めてグラントは敬意を覚えた。 そして、愛しさも。衝動のように込み上げる。 グラントは無意識に身を乗り出して、エリスの額に… そっと、キスを落とした。 「……っ」 微かに震えた気配。 エリスの睫毛がふるふると揺れた。 「な……にっ……」 掠れた声で驚いたエリスは、この空気を誤魔化すように、ふいっと顔を逸らし、窓の方を見たまま呟く。 「……っなんできたの」 その問いに、グラントはしばらく黙った。 そして、エリスの手をぎゅっと握り込んだまま、低く、真っ直ぐに答えた。 「……心配だったんだ」 沈黙が流れた。 それ以上、エリスは何も言わなかった。 ただ微かに、唇が震えたまま、視線を窓の外に預けていた。 ──ずるい、そんなの。 ……期待させないで。 エリスの胸の奥に、消えない想いが静かに広がっていった。

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