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第27話 遠ざかる隣
エリスは、皇女ヘレネの応接室に度々呼ばれるようになった。それは、あの日の「お願いします」という真っ直ぐな瞳を無碍にできなかったからだ。
週に一から二度ほど、皇女の恋の相談に乗っている。
「グラント様と偶然お会いできる時間帯は?」
「差し入れをしたいの。どんなものがお好きかしら?」
その問いに、エリスは丁寧に答えていた。
グラントの好物のバノフィーパイ、気分転換に読む冒険譚の短編集。朝は早く執務や訓練に入るが、午後の15分は必ず休憩をとっていること。
彼の習慣も、嗜好も、癖も、誰よりも知っていた。
それを皇女に伝えるたび、胸の奥がじくじくと痛んだ。
でも、皇女の嬉しそうな笑顔を前にすると、どうしても言葉を飲み込んでしまう。
(僕はこんなにも醜かったのか……皇女様を素直に応援できないなんて…)
*
数日後。休憩中。
グラントは軍服の上着を脱ぎながら、皇女からの差し入れを見て、思わず手が止まった。
「……これ、バノフィーか?」
「はい。リューネスの皇女殿下が“グラント様のお好きなものだと伺いました”とのことでした」
配達係の兵士がそう告げると、グラントはしばし無言のままパイを見つめた。
(この好みは…ごく一部しか知らないはずだ)
エリス、あるいはクローネ。だがクローネに話した覚えはない。
別の日には、彼がたまに読んでいる短編集の話題が皇女から出た。
そしてさらに別の日には、彼がふと口にした酒の好みまで。
明らかに、“長年隣にいた誰か”が教えている。
その誰かが、エリスであることはすぐに察しがついた。
(……なぜだ)
思考の奥に浮かぶ、焦燥のようなもの。
確かに、最近、いやあの打ち上げの後から、エリスの視線が少しずつ離れている気がする。
だが、これは“そういうこと”なのか?
彼の本心が、見えなくなる。
*****
一方で──
中庭での会話以降、皇太子レオンは明らかにエリスへ接近する頻度を増やしていた。
会議や打ち合わせがあるたびに、「貴国の参謀としての意見をぜひ」と名指しでエリスを同席させる。外交儀礼の範疇を装いながら、彼はさりげなくも着実にエリスとの接点を重ねていった。
エリスはというと、自身の知識や戦略的意見が皇太子の目に留まり、役立っていることが純粋に嬉しかった。「ありがとうございます、少しでもお役に立てたなら」と微笑む彼に、レオンの碧眼は優しく細められる。
ただ毎夜、エリスは皇女ヘレネの相談に悩まされていた。
資料を広げた机に、肩を落として小さく頭を垂れる。
山積みになった戦略書類の隙間に、そっと置かれた皇女からの手紙。
その一枚一枚に書かれた「グラント様ともっと仲良くなるには」「次はどんな話題がいいでしょう」という問いに、エリスは律儀に答え続けていた。
(今日も……ちゃんと相談に乗れていただろうか)
不安に、掌をぎゅっと握りしめる。
(皇女様に……僕の性格の悪さが出てないだろうか)
無意識のうちに滲む嫉妬や哀しみを、彼女に悟られてはいけない。
(グラントの負担にならないよう、予定を伝えないと)
彼の本来の予定を邪魔しないように。疲れた顔をさせないように。
けれども皇女の期待を裏切らないように──
(皇女様を泣かせるわけには……)
エリスは必死に言い聞かせた。
それでも、心の奥底から自分の声が聞こえてしまう。
(……うまくいったら、どうしよう)
そんな矛盾を抱えたまま、エリスは静かに目を伏せた。
(……僕は、何をしてるんだろう)
自問は、答えを得られないまま、夜を何度も越えた。
寝不足の日々が積み重なり、目の下には薄く影ができていた。
それでも、エリスは笑った。
誰にも、見抜かれないように。
だがその綻びに、気づいたものが一人。
「……エリス中佐」
何気ない会議の後、声をかけたのはレオンだった。
「いかがされましたか?」
「ちょっと、来てくれる?」
導かれたのは、別室に設けられた応接用の小部屋。
机の上には、リューネス特産の美しい菓子箱が置かれていた。
「頑張り屋の君に、ご褒美あげようと思ってね」
レオンは微笑むと、「どうぞ」と蓋を開けて中の菓子を見せた。宝石のように輝く、華やかな彩りの練り菓子。
エリスの目が、ぱっと明るくなる。
「わぁ……綺麗ですね。お菓子じゃないみたい……食べるのが、勿体ないです」
レオンはその反応に思わず笑ってしまう。
「君に食べてもらわないと、菓子達が悲しむよ」
「……なにおっしゃってるんですか」
思わず笑ったエリス。ぽつりと一言、
「じゃあ、ありがたく、いただきます」
小さく口に運ぶと、その頬が緩んだ。
「……んー! 美味しいです!こんなの初めて食べました!」
あどけないほどの無邪気な笑顔。
その一瞬、レオンは胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
「……本当に、君は頑張り屋だよ」
誰にも見せない心の疲れが、隠し切れずに零れ落ちそうなその瞳。レオンはそっと、その労わりに手を伸ばしたくなるのを堪えた。
(どうして君はそんなに、いじらしいんだ…)
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