36 / 45
第30話 仮初の姿を脱いだ君
エリスや警備兵たちの迅速な制圧により、昨夜の社交会の騒乱は大事には至らなかった。
すぐに駆けつけた警察が侵入者たちを捕らえ、詳細な取り調べが行われた結果──
今回の事件は、上流階級を狙った無差別テロだったようだ。レオンが狙われたのは、単に目立つ容姿ゆえだろう。
*
リューネス皇太子の客間。
レオンは、朝食のトレイと一緒にメイドから渡された新聞を手に、ソファに腰を下ろしていた。
紙面には、大きく昨夜の騒動の様子が取り上げられている。だが、彼の目が止まったのは次のページだった。
そこには、会場の裏口から車へと乗り込む二人。レオンと、変装を施したエリスの姿が、はっきりと写っていた。
静かに、レオンは微笑んだ。
「……よく写ってるじゃないか」
黒髪が風に揺らされ、前髪から覗く翡翠の瞳。ドレスのスリットからは引き締まった足がのぞき、不思議な色気を醸し出している。
思い返すのは、あの瞬間。
体格で勝る男、銃を持った刺客を、あっという間にねじ伏せた強さ。華奢に見えるその身体に宿る、本物の力。
「君の魅力は……本当に底知れないな」
レオンは、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。
そして改めて、記事に視線を落とす。
そこに書かれた見出しは──
《リューネス王国皇太子、異国の美女をお持ち帰り!?》
“祖国の令嬢たちには目もくれず、謎に満ちた異国の姫にご執心!?
騒動に紛れ、夜会場から手を取り合い、高級ホテルへ直行──情熱的な夜を過ごしたとの噂も”
「……はは、ひどいな」
レオンは声を出して笑ってしまった。
──人目を憚らず情熱的なキス。
──ホテルに入ったきり夜通し五時間。
──新たな恋の噂。
どれもこれも作られた話。
事実は、会場からヴァレオン王国の車に乗った、それだけだ。話題作りのためだけに過剰に脚色された物語。滑稽すぎて、どこか愛おしくすら思える。
そんな時、控えめなノック音が響いた。
「エリス・ラナ=ヴァルティアでこざいます」
「どうぞ」
入ってきたのは、軍服姿に戻ったエリスだった。
静かに、まっすぐに、エリスは頭を下げた。
「殿下、今朝の記事の件で……私の不注意により、殿下を巻き込んでしまい、申し訳ございません」
レオンは苦笑しながら新聞をたたみ、首を振った。
「謝ることじゃない。むしろ……ツーショットなんて、いい記念になったよ」
そして、少しだけ声を落とす。
「私の方こそ、感謝しなければならない。君は私の命を、完璧に守り抜いてくれた。本当に、ありがとう」
エリスは顔をあげる。目には少し安堵の様子が。
「……寛大なお心、感謝いたします」
レオンは、ふと眉を寄せた、苦しそうな表情を浮かべた。
「君に、他国の情勢や考えに触れる機会をあげたいと思って……無理に引っ張り出してしまったせいで、巻き込んでしまったな」
エリスは目を伏せ、そしてふわりと笑った。
「……そうだったんですね。本当に、とても貴重な機会でした。
戦うことなど、なんてことありません。人を守るのも、私の使命ですから」
その笑顔に、レオンは一瞬、息を呑んだ。
やはひ、仮面を脱いだ素の君こそ、何より美しい──
心の底から、そう思った。
レオンは冗談めかして、口にする。
「それで?謎の異国美女は、どこへ行ってしまったのかな?」
エリスは、くすっと小さく笑い、
「……彼女は国に帰りました。もう戻りません」
と、冗談を受けるように応じた。
「……それは残念だ」
そう言って、レオンは自然な動作でエリスの手を取る。
そして、そっとその甲に、静かなキスを落とした。
エリスは、戸惑ったように目を伏せる。
「…それでは、任務がありますので……失礼いたします」
恭しく頭を下げ、エリスは踵を返した。
レオンは、その背中を見送りながら、ふと願う。
(どうか、こちらに振り向いてくれないだろうか)
ほんの一度でいい。
いや、それは嘘だ。翡翠の瞳は、自分だけを見ていてほしい、ずっと。
静かな願いが、王宮の朝に溶けていった。
ともだちにシェアしよう!

