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第31話 静かな火種
訓練が終わり、冷えた汗を拭いながらエリスが訓練場を後にしようとした時だった。
「エリス」
背後から呼び止める声に振り返ると、そこには軍服姿のグラントが立っていた。
「今日の夜、部屋に来い」
低く、どこか苛立ちを含んだ声で。
エリスはただ「はい」とだけ応じた。
*
夜。エリスがグラントの部屋を訪れると、彼は窓辺に背を向けたまま立っていた。
振り返った顔には、深い影が落ちている。
「皇太子殿下のことだが……無理してないか?」
「無理、ですか?」
「殿下が参加する会議に毎回同行しているだろう。それに社交会の打ち合わせも。
いくら友好国の皇太子でも、業務外のことは断って構わないんだぞ」
グラントは低く告げた。
だがエリスは、少し微笑んで言う。
「ご心配ありがとうございます。でも、無理はしてません。会議も打ち合わせも、勉強になることばかりなので……断らないだけです」
エリスは微笑すら浮かべてそう言うが、グラントの目には、その目の下にうっすら浮かんだクマが焼き付いていた。
(……それを、無理って言うんだ)
物分かりの良すぎるその返答に、グラントの苛立ちは膨らんだ。
「なら、この記事はなんだ」
デスクから新聞を放り出す。
そこには、レオンとエリスが同じ車に乗り込む姿が、あたかも仲睦まじい恋人のように切り取られていた。
「皇太子の気まぐれでこんなものに巻き込まれて、晒されて……“遊び”に付き合わされてるんじゃないか?」
「違います」
エリスは即座に否定した。
「社交会のことも、私が参謀として成長できるよう、他国と触れる機会を与えてくださっただけです。下心で動くような方ではありません」
あっさりとレオンを庇うエリス。その言葉に、グラントの胸に嫉妬の炎が広がった。
「いいや、下心を持って近づいている。……お前の、その無防備さにつけ込んでな。あわよくばと、その時を狙っているのが見え透いてるだろう…!」
グラントは拳を握る。声が低く鋭くなる。
「無自覚にも程があるぞ」
鋭い非難に、エリスの表情がキュッと強ばる。だが、すぐに睨み返し、きっぱりと言い放った。
「僕が殿下とどうなろうと、あなたには関係ないですよね?」
「……!」
「取られそうで嫌なんですか?せっかく、すぐ手が出せそうなオメガが近くにいたのにって思ってるんでしょ?でもいいじゃないですか、あなたにはもうすぐ、可愛らしい奥様ができるんですから」
グラントの顔が一瞬で険しくなる。
「……なんだと」
地を這うように恐ろしく低い声。
部屋にぴりぴりと緊張感が走る。
「お前……俺が“慰め”としてお前を見ていると、そうで思っていたのか?」
グラントの握る拳がわなわなと震える。
「それに、俺に皇女を当てがってるのはお前だろう!どうしてそこまでして、くっつけたいんだ……
あぁ、そうか。こんなむさ苦しい軍隊のアルファより、王子がお望みってわけか。妹を助けて、自分も売り込もうって魂胆なんだろ」
口を突いて出た言葉は、どれもナイフのように鋭かった。
──二人の間に沈黙が流れる。
わずかでも動けば切り裂かれそうな、凍てつくような空気。
しばし互いに鋭く睨み合うと、エリスは震える手で敬礼を取った。
「……話は終わりましたよね。失礼します」
背を向け、バタンッ!と部屋を出る。
その瞬間、込み上げるものを抑えられず、エリスはその場から走り去る。頬には涙が伝う。
こんなに傷つけあったのは、初めてだった。
*
「っ……っぅ……っ…」
中庭で夜風にさらされながら、エリスは一人で膝を抱えていた。涙と共に漏れる声を押し殺して。
(僕がやったこと、バレてたんだ……)
皇女を助けたことも、それをグラントにどう見られているかも。自分でも何がしたいのか分からないまま、ただ皇女を悲しませたくない一心でやってきた。それを、最悪の形で拒絶された痛みは、深く、重い。
(もう……グラントとは……元に戻れないかもしれない……)
溢れる涙が止まらない。
そこへ、そっと近づく影があった。
「またここにいるんだね、参謀殿」
レオンだった。
エリスは顔を上げられなかった。涙を見られたくなかったから。けれど、レオンは優しく回り込み、その顔を覗き込んだ。
「……どうしたの?」
「僕が、悪いんです……。上手くできなかったから……
それにっ、酷いこと……言っちゃった、っ…」
また涙が溢れた。この中庭に海を作ってしまうほどに。
レオンは小さくため息をつき、そっと頬に手を添えた。
「君は、優しすぎるよ」
「……っ」
「それは、君を壊してしまうよ。君は、悪くない。
悪いとしたら……自分を押し殺してしまうところ、かな」
優しく、親指で涙を拭う。けれど涙は止まらない。
レオンは苦笑して囁いた。
「ふは……止まらないね」
そして、ふと顔を近づけ、
「お願い、泣き止んで。悲しい君は見たくない」
──そっと、エリスの唇にキスをした。
「……!」
驚いて目を見開くエリス。
レオンは微笑み、唇を離して言った。
「涙、止まったね」
「え……いま……なん……」
「私は、私のそばに君がいてほしいと思ってる。できれば……ずっと」
「殿下……」
エリスの心は、悲しみ、驚き、そして戸惑いで混乱していた。
レオンはそっとエリスの額にちゅ、とキスを落とし、立ち上がった。
「混乱しちゃうから、今日はここまで。とにかく、ゆっくり寝ること。いいね?」
そう言い残して、夜の闇へと去っていくレオン。
取り残されたエリスは、
胸に渦巻く想いを抱えたまま、呆然と月を見上げていた。
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