39 / 45

第33話 偽りのキス

日が傾き始めた頃、エリスは静かに応接間の扉を開けた。皇女ヘレネは、緊張を隠すように真っ直ぐ立っていた。 その姿に微笑を向け、エリスは人払いをした後、庭園の奥にあるテラスへと案内する。 「まもなく…グラント中将が、いらっしゃいます」 エリスの言葉に、皇女はコクリと頷き、深く息を吸った。 その場にエリスの姿は不要だった。ただの仲介者でしかないのだから。そう言い聞かせながら、彼は離れた柱の陰に身を隠す。 やがて、ブーツの音が静かに響いた。グラントが現れ、皇女に促されるまま、テラスの椅子に並んで腰を下ろす。 二人は言葉を交わし、そして、 (……っ!) 皇女がわずかに身を乗り出し、グラントの胸にそっと手を添える。その距離はあまりにも近い。 そのまま顔を近づけて── キスをしたように、見えた。 実際には、唇が触れるよりも先に、グラントが彼女の肩に手を添え、そっと距離を取るように優しく離していた。 けれど、柱の陰から見ていたエリスの心には、もうそれ以上、続きを見届ける勇気は残っていなかった。 「……っ」 胸を貫く鈍い痛みに、エリスはその場を離れた。 誰もいない庭園の片隅、夕陽の差すベンチに腰を下ろす。 (グラントには、また嫌われるだろうな……でも、その方が皇女様にとって、良いことかもしれない…) (こんな捻くれ者より……素直な子の方が、良いに決まってる……) 静かに、堪えていた涙が頬を伝った。 「結局、手助けしちゃうんだよね、君は」 その声に、エリスははっと顔を上げる。 いつの間にかそこに立っていたのは、レオンだった。いつもより少し低く、切ない声音だった。 「……見ていたんですか」 「うん。……でも、見ていられなかったのは、君のほうだ」 レオンはそっと隣に腰を下ろすと、ハンカチを取り出し、涙を拭おうとする。けれど、エリスは首を振って、視線を逸らした。 「……僕は、お二人が幸せになるなら、それでいいんです」 「本当に、そう思ってるの?」 問い詰めるような声ではなかった。ただ、優しく、揺らがせるような声音で。 「エリス。前にも言ったけど──私は、君にずっと隣にいてほしい。今はまだ彼を思っているかもしれない。でも、それでいい。痛みも、悲しみも、全部、私に受け止めさせてほしい」 レオンの言葉はまっすぐで、優しかった。 けれど、それがかえって胸を締めつけた。 (こんなに誰かに優しくされるなんて、僕には…) 「……レオン殿下」 「泣かないで、エリス」 そう言って、レオンはエリスの涙を指で拭い、そっと顔を寄せた。その距離は、唇が触れる寸前。 ──その瞬間。 「……あっ」 エリスの肩がビクリと跳ねる。 体の奥から、じわじわと熱が湧き上がってくる。 (まさか……) 思わず呼吸が乱れ、心拍が速くなる。 (うそ……こんなときに……)  発情期(ヒート)。 リューネス王国の訪問、そして皇女とグラントの距離に心を奪われていたせいで、いつもなら備えていたヒートの到来を、すっかり失念していた。 そして今日、容赦なく、それはやってきた。 「……もしかして、ヒート……きた……?」 レオンは、掠れるような声で尋ねた。そして、感情のままにエリスを優しく抱きしめた。 (だめ……こんなの、だめなのに……!) エリスは心で叫ぶが、熱に浮かされた身体は思うように動かない。 自分のフェロモンに呼応するように、レオンの香りも漏れ出した。スミレの、甘くやわらかな香り。 「……エリス、君の匂い……すごく、いい……」 レオンは、まるで我を忘れたように、エリスの髪に鼻先を埋め、深く香りを吸い込んだ。 「こんな香り……初めてだ。優しいのに、どうしようもなく惹かれる……」 「や……だめ、です……殿下……」 エリスはか細い声で拒もうとする。だが、全身から力が抜け、レオンのフェロモンに反応してしまっていた。 けれど── (違う……僕の心は……グラントに……) 身体が傾きかける。 心は必死に否定する。 そして、涙が一粒、ぽろりとこぼれ落ちた。

ともだちにシェアしよう!