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第33話 偽りのキス
日が傾き始めた頃、エリスは静かに応接間の扉を開けた。皇女ヘレネは、緊張を隠すように真っ直ぐ立っていた。
その姿に微笑を向け、エリスは人払いをした後、庭園の奥にあるテラスへと案内する。
「まもなく…グラント中将が、いらっしゃいます」
エリスの言葉に、皇女はコクリと頷き、深く息を吸った。
その場にエリスの姿は不要だった。ただの仲介者でしかないのだから。そう言い聞かせながら、彼は離れた柱の陰に身を隠す。
やがて、ブーツの音が静かに響いた。グラントが現れ、皇女に促されるまま、テラスの椅子に並んで腰を下ろす。
二人は言葉を交わし、そして、
(……っ!)
皇女がわずかに身を乗り出し、グラントの胸にそっと手を添える。その距離はあまりにも近い。
そのまま顔を近づけて──
キスをしたように、見えた。
実際には、唇が触れるよりも先に、グラントが彼女の肩に手を添え、そっと距離を取るように優しく離していた。
けれど、柱の陰から見ていたエリスの心には、もうそれ以上、続きを見届ける勇気は残っていなかった。
「……っ」
胸を貫く鈍い痛みに、エリスはその場を離れた。
誰もいない庭園の片隅、夕陽の差すベンチに腰を下ろす。
(グラントには、また嫌われるだろうな……でも、その方が皇女様にとって、良いことかもしれない…)
(こんな捻くれ者より……素直な子の方が、良いに決まってる……)
静かに、堪えていた涙が頬を伝った。
「結局、手助けしちゃうんだよね、君は」
その声に、エリスははっと顔を上げる。
いつの間にかそこに立っていたのは、レオンだった。いつもより少し低く、切ない声音だった。
「……見ていたんですか」
「うん。……でも、見ていられなかったのは、君のほうだ」
レオンはそっと隣に腰を下ろすと、ハンカチを取り出し、涙を拭おうとする。けれど、エリスは首を振って、視線を逸らした。
「……僕は、お二人が幸せになるなら、それでいいんです」
「本当に、そう思ってるの?」
問い詰めるような声ではなかった。ただ、優しく、揺らがせるような声音で。
「エリス。前にも言ったけど──私は、君にずっと隣にいてほしい。今はまだ彼を思っているかもしれない。でも、それでいい。痛みも、悲しみも、全部、私に受け止めさせてほしい」
レオンの言葉はまっすぐで、優しかった。
けれど、それがかえって胸を締めつけた。
(こんなに誰かに優しくされるなんて、僕には…)
「……レオン殿下」
「泣かないで、エリス」
そう言って、レオンはエリスの涙を指で拭い、そっと顔を寄せた。その距離は、唇が触れる寸前。
──その瞬間。
「……あっ」
エリスの肩がビクリと跳ねる。
体の奥から、じわじわと熱が湧き上がってくる。
(まさか……)
思わず呼吸が乱れ、心拍が速くなる。
(うそ……こんなときに……)
発情期 。
リューネス王国の訪問、そして皇女とグラントの距離に心を奪われていたせいで、いつもなら備えていたヒートの到来を、すっかり失念していた。
そして今日、容赦なく、それはやってきた。
「……もしかして、ヒート……きた……?」
レオンは、掠れるような声で尋ねた。そして、感情のままにエリスを優しく抱きしめた。
(だめ……こんなの、だめなのに……!)
エリスは心で叫ぶが、熱に浮かされた身体は思うように動かない。
自分のフェロモンに呼応するように、レオンの香りも漏れ出した。スミレの、甘くやわらかな香り。
「……エリス、君の匂い……すごく、いい……」
レオンは、まるで我を忘れたように、エリスの髪に鼻先を埋め、深く香りを吸い込んだ。
「こんな香り……初めてだ。優しいのに、どうしようもなく惹かれる……」
「や……だめ、です……殿下……」
エリスはか細い声で拒もうとする。だが、全身から力が抜け、レオンのフェロモンに反応してしまっていた。
けれど──
(違う……僕の心は……グラントに……)
身体が傾きかける。
心は必死に否定する。
そして、涙が一粒、ぽろりとこぼれ落ちた。
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