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葛藤
会社へ着いた頃には、澪はもういつもの仮面を被っていた。
朝の人波に紛れるようにエレベーターへ乗り込み、慣れた足取りでデスクへ向かう。
どこにでもある、変わり映えのしない朝。
そのはずだった――
だが、どうしても仕事に身が入らない。
気が付けば同じ資料も何度も読み返し、視線だけが文字の上を滑っていた。
――嫉妬しててほしい。
昨日、聞いた声が不意に耳元で囁かれたように蘇る。
「……うざい」
澪は小さく吐き捨てた。
振り払うようにキーボードを叩く。
その指先にわずかに力がこもった、その時だった。
「一之瀬くんちょっといい?」
声を掛けられ顔を上げる。
そこには上司が立っていた。
「来週から新人が入るんだけどさ」
その一言で、胸の奥に嫌な予感が走る。
「教育係、頼める?」
その一言が落ちた途端、部屋の空気がわずかに重くなった。
澪は露骨に眉を顰める。
「俺じゃなくていいでしょう」
即答だった。
上司は苦笑いする。
「そう言うと思った」
そう言いながら、手にしていた書類をデスクへ置いた。
「ほら、他の社員だと甘いからさ?」
「しりません」
「しってます」
間髪入れずに返され、澪は嫌そうに顔を顰めた。
上司は構わず続ける。
「仕事はちゃんと教えるし、厳しいし、変に距離詰めないし、厳しいし、厳しいし」
「それ褒めてますか」
「褒めてるよー?」
全く嬉しくない。
澪は深いため息を吐いた。
書類へ視線を落とすと、新人のプロフィール。
顔写真まで添付されていた。
「断ったら――」
「断られると思ってない」
即答だった。
思わず舌打ちが漏れる。
その反応に上司は満足そうに笑っている。
「よろしくねー!」
そう言い残し、押し付けるだけ押し付けてそのまま去っていく。
澪は椅子へ深く背を預けた。
手元に残された書類へ視線を落とす。
来週から入る新人。
興味はない。
本来ならそんなものに気を取られる余裕もない。
それよりも。
ふと机の端に置いたスマホが視界へ入る。
なにも通知は来ていない。
無意識に手が伸びかけていた。
澪は眉間をおさえる。
「……くそ」
つぶやいた声は、自分でも思った以上に疲れていた。
そのまま机に突っ伏してしまいたい衝動を、澪はどうにか飲み込んだ。
重たい息をひとつ吐き、目の前のプロフィール資料の一枚目を開く。
――名前。
――年齢。
――経歴。
並んだ文字列を、必要最低限だけ目で追う。
興味などなかった。
どうせ数週間もすれば仕事を覚え、自分の手を離れていく人間。
その程度の認識でしかない。
だが、その瞬間だった。
机の上に置いたスマホが、短く震える。
反射的に視線がそちらへ向いた。
画面に表示された名前を認めた途端、眉間に刻まれた皺がさらに深くなる。
――美波仁都。
《おはよ》
表示されていたのは、たったそれだけの短いメッセージ。
それなのに。
昨日の記憶が、嫌になるほど鮮明によみがえった。
澪は何も言わずスマホを裏返す。
そして次の瞬間、抑えきれない苛立ちを吐き出すように、盛大な舌打ちを落とした。
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