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第2話

 改札を出たところで先生が待っていた。  今日はいつもの先生の大学の最寄りの駅じゃなく、デパートやショッピングモールが立ち並ぶ繁華街へ通じる駅だ。春先の午後はまだ肌寒く、陽のあたるところは暖かいけど日陰はひんやりとした。石造りのつやつやとした大きな柱にもたれて、先生は日陰から明るいところを眺めている。先生、と呼びかけると、振り返って小さく顎先を上げた。 「なんで映画?」  開口一番、先生は訊いた。映画を見に行こうよ、と電話口で僕が言ったからだ。ああ、と聞いているのかいないのか、曖昧な返事をした先生は待ち合わせの時間と場所を決めただけで電話を切ったのだったが、今さらになって不思議に思ったのだろうか。 「映画はヤなの?」 「ヤっつうわけじゃねえけど、めずらしいなと思って。なんつうの、普通な感じ?」 「お母さんがくれたんだよ。前売券。なんか、人にもらったんだって。お母さんこういうの見ないからって」  僕が鞄からチケットを取り出してみせると、先生は覗きこんでタイトルを確認した。流行りの外国のSF超大作だ。 「へえ。いいじゃん」 「先生、こういうの好きなの?」 「別に好きじゃねえけど。マイナーな白黒映画とかよりはマシだよな」  そう言いながらも大あくびをする。 「今朝までかかってさ、さっき昼前に課題出してきたんだよ。悪いけど寝るかも」 「いいよ。どうせタダだし。行こう」  おう、と先生は言って、歩き出した僕に追いついて並ぶ。ゆるくうねった茶色い髪が陽をはじいて揺れて、青白い顔に影を作る。  最初に会ったときより僕はずっと背が伸びて、今では先生を追い越しているのがまだちょっと変な感じだ。  またこうして先生の横顔を眺められることが、本当のところ、信じられないくらいだった。受験が終わったばかりのときはもう二度と会えないと思っていたし、先生のことなんて忘れてしまわなくてはいけないと覚悟さえしていた。なのに。  僕の隣を先生が歩いている。かったるそうに、ポケットに手をつっこんで、時々あくびを繰り返しながら歩いている。それだけでなんだか、夢のように幸福だ。もう先生のことを忘れなくたってよくて、先生が僕の家庭教師じゃなくても僕は先生に会える。  先生は映画の本編が始まってそこそこに、予言したとおり寝息をたて始めた。そうなるんじゃないかと思ってチケットカウンターで席を決めるとき、一番後ろの端の壁ぎわにしておいた。映画の音はけっこう大きいのに先生は心地よさそうに寝息をたてている。  きれいな寝顔だなあ、と思わず見とれた。映画なんかより先生の寝顔をずっと見ていたいくらいだ。でもまあそれはさすがに変すぎるから、ファンタオレンジのラージカップを片手に映画に集中した。  途中、宇宙空間での激しい戦闘シーンで先生は一度起きたようだったけれど、またすぐに眠りに落ちていった。そのとき一緒に頭も落ちてきて、僕の肩に寄りかかった。やっぱり、目立たない一番後ろの端の席で良かったと思った。  肩のあたりがほんのり熱い気がするのはきっと気のせいだけれど、おかげで身体全体がなんだか熱かった。僕はなるべく身動きしないよう心がけて、先生の呼吸を感じながら一人で三時間の超大作を観賞した。  エンドロールが終わって館内の灯りが点き、観客が立ち上がるざわめきでようやく先生は目を覚ました。 「……げ、終わった? やば。俺ずっと寝てたわ。悪い」 「いいよ別に。昨日寝てないんだろ。ちょっとは楽になった?」 「……おまえ、いいやつだなー」 「今頃気づいたの?」 「まあ、前から知ってたけど」  映画館を出ると外はすでに夕刻の気配に満ちていて、仕事帰りの人たちが急ぎ足で行き交っていた。 「腹減ったなー。メシどうする?」 「あ、おれ、お母さんから晩ごはん代もらってんだ。それで食べようよ」 「へえ、いくら」 「一万円」 「すげえな。なんでそんなにくれてんの」 「先生にはいろいろお世話になったからって。それに……」 「ん?」 「や、別になんでもない」 「ふうん。二人で一万円ってけっこういいもん食えんじゃねえの。いつもの食堂行くのもなんだよな。何食う?」  先生は子どものように顔をほころばせる。 「なんでもいいよ。先生何が食べたい?」 「焼肉」 「焼肉はさすがに高いんじゃないの」 「安いとこなら大丈夫だって。はみ出たぶんは俺が出すよ。行こうぜ」  そう言って、先生は意気揚々と歩き出す。僕はもちろんついてゆく。  先生が連れてってくれた店は若い人ばかりでにぎわっていた。メニューに並ぶ金額は確かにお手頃価格で、肉の種類や部位を選ばなければ十分お腹を満たせそうだった。 「な、飲んでいい?」  注文を終えたあと、思いついたように先生は僕を覗きこんで言う。そんなふうに訊かれたら、だめだなんて言えるわけがない。 「いいけど。おれは?」 「だめに決まってんだろ、未成年」 「自分だけずるい」 「すいませーん、生ひとつ」  先生は片膝を立てた行儀の悪い姿勢でひどくおいしそうにビールを飲んだ。僕はビールは苦くて飲めないのだけど、先生があんまりおいしそうに飲むのでうらやましくなる。  安物だけれど僕らには十分おいしい肉をせわしく焼いては口に運びながら、僕はさっき見たばかりの映画の内容を先生に話して聞かせた。なにしろ三時間の大作だから順を追って話しているとずいぶんかかる。最初は肉とビールで気もそぞろだった先生は、後半先を急かすように熱心に聞いた。 「へえ、俺も見りゃよかったな」 「ムリでしょ。主人公が出てくる前に先生寝てたよ」 「暗くなるとやばかったな。寝ろって言われてるみたいだったな」 「先生、プラネタリウムとかもやばそうだね」 「あれも速攻寝るな」 「行ったことある?」 「あるよ。速攻寝て、マジ怒られた」 「誰に」 「そんときの彼女に」 「……ふうん」  まったく、いけしゃあしゃあと先生は言う。別にいいけど。今はいないんだし。  先生は結局ビールを二杯飲んだ。会計はやっぱり少しだけ足が出て、その分は言ったとおり先生が払った。  帰りの電車は混雑していた。電車が一駅停まるごとに僕は焦り始めた。じきに先生の降りる駅に着く。僕は今日、先生のところに泊まってくると言って出てきた。だから母親が、申しわけないからと多めにおこづかいをくれたのだ。今さら帰るわけにはいかない。  はたして先生は、どう思っているだろう。駅に着いたら先生は、じゃあなと言って降りてゆくんだろうか。それでもし、僕が続いて一緒に降りたらどんな反応をするだろう。驚くだろうか。迷惑そうな顔をするだろうか。  そういう僕の懸念は、でもじきに払拭された。電車が速度を落とし始めたとき、ふと気づいたように、先生は言ったのだった。 「そういやおまえ、今日は泊まりだって言ってきてんの?」  予想外の確認に、僕は一瞬心臓が跳ねたけれど、でも当然のような顔をして答える。 「うん」 「そうか。次だ、降りるぞ」 「うん」  僕は先生の背中を追うようにしてプラットホームに出た。当然のような先生の口調に、口元がにやけそうになるのをがまんして、浮き立った心とはやる気持ちをおさえながら。

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