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第3話

 先生の家は三階建ての、小ぶりだけど重厚なマンションの二階の角部屋だった。  玄関を入るとまっすぐ伸びた廊下の右に二つ、左に一つ扉があって、廊下の先のすりガラスのはまった戸を開けると、カウンタ式のキッチンと一体になったリビングだった。右側にさらに扉が一つある。  広いリビングはすっきりとしたインテリアでまとめられていた。僕の家は僕が生まれる前に建てられた一軒家で、それとは趣きがずいぶん違う部屋の様子に、なんだかそわそわとする。大学生の一人住まいだからもっと狭くて乱雑な部屋を想像していたのだ。 「先生、一人暮らしだよね?」 「他に誰か見えるか? おまえまさか霊が見える系?」 「違うよ。あんまり広いから」 「そうか? そっちに部屋が一つあるだけだぜ。玄関わきに物置みたいな部屋はあるけど」 「ちょっと見てきていい?」 「いいけど」  了承を得て、家の中を見学した。確かに先生の言うとおり、玄関わきの部屋は小さく、掃除機だとか本棚だとか段ボールだとかが置かれている以外は閑散としていて、他の二つの扉はトイレと脱衣室つきのバスルームだった。つぎにリビングにある扉を開ける。クローゼットにベッド、それから本棚と勉強机があった。机の上は積み重ねられた本やノートやレポート用紙でいっぱいで、ああそういえば先生はまだ学生なんだったと思い出す。僕があちこち見て回っている間に先生は、冷蔵庫から缶ビールを出して飲んでいる。 「あ、いいな。おれも飲みたい」 「おまえビール飲めんの?」 「あんまり飲めないけど。でも飲みたい」 「チューハイならあるぜ。青りんごとか、甘いやつ。そっちのほうがいいんじゃねえの」  冷蔵庫を開けると、ビールの缶の隣にチューハイの缶があった。青りんご、桃、カルピス。僕は一本取り出してプルトップを開け、ひとくち飲む。ビールよりだんぜんこっちのほうがいい。 「おいしいや。ジュースみたいだ。先生、こういうのも飲むんだ」 「いや。飲まないけど」  振り返ると先生はソファに座りこんでテレビをつけている。  飲まないのにどうしてこんなものがあるんだろう。答えは一つしかない。僕のために用意してくれたんだ。わざわざ。今日のことだって面倒くさそうで渋々って感じで、でもちゃんと僕のことを考えてくれていた。忙しいのに。  そんな先生が、しみじみと好きだと思う。そんな好きな先生のところに来られて、こんなに幸せなことってあるだろうか。 「あ、ボクシングやってんじゃん。防衛戦じゃん。勝ってんのか?」  先生はソファの上であぐらをかいて、前かがみになって食い入るようにテレビを見つめている。その隣に並んで座る。 「先生、ボクシング好きなの?」 「いや、そんなに」 「あ、そう」 「でもまあつい見るな」 「それって好きってことじゃないの?」 「まあそうかもしんない。冷蔵庫の横の棚にチータラあるからとってきて」  言われたとおり取ってくる。そのまま先生と一緒にボクシングの試合を見た。でも僕はボクシングにさほど興味がないから、ときどき横目で見ていた先生の横顔を、そのうちじっと眺め始めた。  先生の横顔はあいかわらず端正で、目元を細めた気怠そうな表情がいかにも先生らしい。先生が家庭教師に来ているときはもちろん勉強しなくてはいけないから、こんなふうに見たくても見られなかった。でも今は勉強しなくてもいいし人目もないし、じっと見てもいいっていうことだけでもたまらなく嬉しい。 「……なんだよ」  テレビに視線を向けたまま先生が言った。 「先生」  先生は億劫そうに、ようやく振り向く。僕は少しだけ先生に体を寄せる。 「……何」  先生が訝しげな眼差しを向けてくるけれど、僕はさらに近寄る。近寄って、覗きこむように少しだけ、先生の方に顔を近づける。先生は少し眉をひそめただけで、でも動かない。  もう少しだけ、顔を近づける。  すぐそこにある先生の目は、細めたまま僕の目をじっと見ていた。僕がゆっくり近づいても動く気配はない。動かないっていうことは、続行してもかまわないっていうことだ。  僕は身を乗り出すようにして先生の口元を目指した。もう鼻先が触れる、というところで、突然テレビから騒々しい歓声が上がった。同時に先生の唇が目の前から消える。 「あっ、ダウン見逃したっ。何、今の。どうなった? な、今の見た?」 「……見るわけないじゃん」 「あ、リプレイ。すげ、完璧。ばっちし入ってんじゃん。な、すげーって、ほら」 「ほんとだ」  呆れたように言っても、先生は興奮してまるで頓着しない。なんてタイミングだ。せっかく、久しぶりに、あともうちょっとで先生とキスできるところだったのに。 「あ、俺フロ入ろ。おまえ先入る?」 「いいよ、後で」  先生はのんきにバスルームに行ってしまった。ほんとにのんきなものだ。フロだなんてさ。  そういえば、ほんの二週間前も先生がフロから出てくるのを待っていた。あのとき先生は腰にバスタオルを巻いただけの格好で出てきて、僕が呆れたのだった。だってそれは、先生が僕のことをまったく相手にしていないってことで、それでがっかりもしたのだ。  でもまあ結局のところ、先生が僕のことをまったく意識していないわけじゃなかった。だって、その後先生は。  そこまで考えて、僕は一度思考を止める。うかつに思い出すと危ない。記憶を事細かにたどるには場所と時間を選ばないといけない。  先生はものの数分で出てきた。今度はバスタオル一枚じゃなかった。スウェットのズボンにトレーナー姿で、濡れた頭をタオルでがしがしと拭きながらソファに座る僕を見つけ、 「何してんだよ、さっさとおまえも行け」  そんなことを言ってまた冷蔵庫から缶ビールを取り出している。  僕がリュックから寝間着を取り出してバスルームに向かうと、先生は後ろからついてきてタオルの場所やなんかを教えてくれた。こういうところ、先生は親切なのだ。一見ぶっきらぼうで雑な感じなんだけど。

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