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第3話
部屋に戻ると、須田はいつもの顔に戻っていた。さっきまで自慰に耽っていたなんて思えない。
真っ赤な舌は唇の奥にもどっていた。
「風呂長かったから、のぞきに行こうかと思った」
「ばか」
軽口を叩いて笑っている。のぞかれなくてよかった。
風呂に行った須田を見送り、布団に倒れ込む。深いため息をついた。あんなの、みるべきじゃなかった。みてしまったら、一生忘れられない。
布団を頭までかぶった。かたく瞳をとじる。そうしているあいだに須田が部屋に戻ってくる。カラスの行水だ。その代わり、朝晩の二回風呂に入る。
「とも?」
布団の中でまるまった。俺が寝ていると思った須田が電気を消す。ドライヤーで乾かさなかった髪が冷たい。
「……智也」
寝たと思われたんじゃないのか……?
須田が話しかけてくる。
「寝た?」
布団の中で薄く瞳をあける。視線を右に左に動かした。
「狸寝入りなのバレバレ」
息を止める。鎌をかけられている気がする。このままやり過ごすのが無難だ。でも……。
「……なに?」
須田の声が寂しそうだったから、つい返事をしてしまった。
「やっぱ起きてた」
「なに」
「なんで寝たフリしてんの? 枕投げしよ」
「なにか言いたかったんじゃないの」
すぐにちゃらけてみせる。不安なときほど強がって、寂しいときほど明るく振る舞う。須田の悪いクセだ。俺には、俺にくらい、本当の須田をみせてほしい。不安なら不安。寂しいなら寂しい。って教えてほしい。
寝室が静まりかえった。須田は「あー」と声をもらす。
「……あのさ」
「うん」
「じいちゃんのことなんだけど」
「うん」
「……やっぱなんでもない」
「え?」
「なんでもない。おやすみ」
強制的に話を切り上げられる。
「須田?」
名前を呼んでも返事はない。なんだよ、俺には返事を求めたくせに。
「……おやすみ」
少しだけムッとした。
朝、目が覚めるとベッドに須田がいた。すやすや寝息を立てる須田を揺り起こす。
カーテンから漏れる朝の光の下でも、桃色の唇はなまめかしい。思わず瞳をそらした。
「部活いかなくていいの?」
土曜日の朝はバスケットボール部の朝練がある。筋肉のついた身体は重い。優しく揺すってもビクともしないので、乱暴に揺すった。
「……んん」
「んんじゃなくて、練習」
「うーん」
うんうん唸っている。枕元の携帯電話には通知がきていた。ディスプレイの通知欄に「今日も休み?」というメッセージがみえた。
「休むなら休むって連絡しないと」
「……うん」
やっと瞳をあけた。グレイの瞳はまだ眠たそうだ。手探りに携帯電話を探した須田は、しょぼしょぼした瞳でメッセージを読んだ。
「いま何時」
「目の前の待ち受けに時間表示されてるけど」
「……あーマジか」
どうやら、休む予定ではなかったらしい。ディスプレイは八時を表示している。朝練ははじまっている時間だ。いまから身支度を整えて行くか迷った須田は、マネージャーに「安静をとって休む」とメッセージを打った。
「マジのサボりになっちゃった」
「昨日のは?」
「あれはねんざのせいで休んだ」
見学しなかったクセに、須田は堂々としている。ベッドから降りてのびをして、ねんざしていた足を何度か動かした。
「痛い?」
「いや、平気」
「ちょっとも痛くない?」
須田は呆れたように笑った。
「智也は心配性だなぁ」
「須田が痛いのに痛いっていわないからだろ」
「はいはい」
朝早くに起きていたおじいさんは、一度めの朝食を終えている。俺たちが起きると、二度めの朝食を楽しむのが恒例だ。
「おはよう」
昨日よりも顔色のいいおじいさんがにこりと微笑む。テーブルの上には二種類のオープンサンドがあった。サラダとスープもある。スモークサーモンとアボカドのオープンサンドを選んだ俺の横で、須田はチキンとバジルのオープンサンドをかじった。唇についたバジルソースを真っ赤な舌が舐める。唇ばかりみてしまう。
昨日、須田を目の前にデッサンをはじめたときは、これでやっと満足のいく唇を描けると思った。唇を上手く描けなかった反動か、いつも以上に桃色の唇に瞳がいく。
顔をあげていると唇ばかりみる。うつむきがちにサラダをよそった。
おじいさんは温かいスープをくちに含んだ。深いスプーンで丁寧にスープをすくう。人参をくだいた自家製ポタージュは裏ごしされていないから、咥内に少しだけ人参が残る。
スープを飲んでいたおじいさんが空咳をした。今度はスモークサーモンとアボカドのオープンサンドを食べようとしていた須田は、ちらりとおじじさんをみる。
「あのさ」
おじいさんは「うん?」と首をかしげた。
「病院行こう」
須田と同じ、グレイの瞳がテーブルクロスをみつめた。
「ついてくから」
「……ひとりでいい。病院なんか行っても、つまらないだろう」
「俺が一緒に行きたいんだよ」
須田の声が張りつめた。いつも明るく元気で穏やかな須田は、こんな声を出さない。くちの中のトーストを塊のまま飲み込んだ。
病院に行くふたりと一緒に、須田のおじいさんの家を出た。家に帰っても、須田の張りつめた声が耳に残っていた。
夕方。ベッドに寝ころんで小説を読んでいた俺は、須田にメッセージを送った。昼からずっと小説を読んでいるのに、ちっとも頭に入ってこなかった。勉強机で読み、床に座って読み、ベッドに寝転がって読み……。とうとう我慢できずに、須田に連絡をした。
おじいさん大丈夫だった? は直接的すぎる。
家帰った? はなにが言いたいのかわからない。
病院混んでた? これ……が一番無難かもしれない。須田の好きなマンガがアニメ化される話は、空気読めてないし……。
迷いに迷って「病院混んでた?」にした。送信してすぐに返信がくる。開いたままの小説を読む間もなかった。
ー夕飯食べた?
会話がかみ合っていない。病院混んでた? の返事が「夕飯食べた?」ってなんだよ。
ゆっくりとベッドから起きあがる。須田には「まだ」と送った。
二階の自室から一階のリビングまで降りる。階段を降りているあいだに、須田から新しいメッセージがきた。
ー迎えに行く
ディスプレイを眺める。俺に予定があったら、どうするんだよ。
「母さん、夕飯いらない。あと今日も、須田のおじいさんの家泊まるかも」
リビングのテレビは韓流ドラマを流している。流行のドラマを流しながら料理をしていた母さんは「あら」といった。
「今日も?」
「だめ?」
「だめじゃないけど、須田くんのおじいさんはいいっていってるの?」
うちの近くにおじいさんが住んでたときは、母さんも顔をあわせていた。須田と同じグレイの髪とグレイの瞳は、近所でも話題だった。
「いいって」
たぶん。須田が誘ってるなら、そうなんだろう。
「そしたら、おかず持って行って」
話しているとインターホンが鳴った。
「あら、須田くんかしら」
早い到着だ。インターホンのディスプレイには若い男が写っている。画素数の低いモニターでも雰囲気があった。バイクのヘルメットをしたまま、瞳もとだけをみせた。
「はやい」
ー近くにいたから
部屋に戻って財布と携帯をボディバッグに詰めた。急いで階段をおりる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。おじいさんと須田くんによろしくね」
玄関を開けると、須田が手を振った。門の前に立っている。
「さっきぶり」
投げられたヘルメットをキャッチする。運動音痴の俺でもキャッチできた。須田が投げたヘルメットは綺麗な弧を描く。バスケットボールを投げるときと同じだ。
「後ろのって」
須田は十六歳になると同時に二輪の免許を取った。十八歳になったら、車の免許も取るらしい。須田がバイクに乗るようになってから、休みの日は須田のバイクで移動するようになった。
バイクはおじいさんの家にある。須田の両親はバイクにのるのも反対した。
貯めていたお年玉と単発のバイト代と、おじいさんのカンパで買ったバイクだ。黒のバイクは男がふたりのれる。俺はバイクに詳しくないからよくわからないけど、バイク好きの須田は憧れの種らしい。
バイクのうしろにまたがった。背中が目の前にある。いつもより近い。強制的に近くなった距離にどきどきした。
「掴まって」
後ろ手に、須田は俺の手を掴んだ。腰を抱くように指示される。
「ここ掴んどくから平気」
「落ちたらどうすんだよ」
バイクのシート部分を掴むといっても、許してくれない。根負けした俺は、今日も須田の腰に腕をまわした。軽くまわすだけでは落ちる。仕方なくぎゅっと掴まる。
「もっと」
「これでいい」
「もっと!」
「いいって」
「落ちるよ」
両手で腹を抱きしめる。満足した須田はエンジンをふかせた。
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