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第4話
おじいさんの家に行く前に、海沿いの道をバイクで走った。
「っだろ?」
「え?」
須田がなにかいっている。風で声がかき消されて聞こえない。身を乗り出した。
「なに?」
「っで、だろ、智也」
「聞こえない」
須田は笑っている。抱きついた背中が揺れた。 砂浜のビーチの前でバイクがとまる。防波堤沿いのビーチ専用駐車場には、俺たちしかいない。春の海は海水浴には早い。オフシーズンの海は閑散としていた。
ひとがいない海が茜色に染まる。ヘルメットを取った。視界いっぱいに茜色がみえる。春の風がヘルメットで押しつぶされていた髪を撫でた。
須田もヘルメットをとる。グレイの髪はぺたんとしている。手で乱暴にかき混ぜる仕草すら映画のワンシーンになる。グレイの瞳が俺をじっとみていた。
「なに?」
「智也は夕暮れが好きだろ」
「そうかも」
意識してはいなかった。でも、いわれてみればそうかもしれない。夕暮れ時の美術室が好きだ。夕暮れ時の海も好き。
「ここ、このあいだ見つけたんだ。穴場かも」
須田はあどけなく笑う。大事な宝物をみせる子供みたいだ。
「智也にみせたかった」
グレイの瞳が茜色に照らされる。光彩がきらきら光ってみえた。髪も、瞳も、茜色になる。俺の黒髪ではこうはならない。グレイの、須田の髪だけの特権。
砂浜に波が打ちつける。茜色の波が黒に染まるまでみていた。
おじいさんと三人で夕飯を食べた。今日はデリバリーだった。おじいさんのお気に入りのイタリアンレストランだ。
食事を終えたのは二十時。おじいさんも須田も、昨日よりも元気そうにみえた。連日泊まるのも迷惑だ。今日は帰ろうとした。
「帰んの?」
食事後、おじいさんが部屋に戻ったタイミングで席を立った。リュックサックを背負おうとしたら、カフェオレを飲んでいた須田が引き留めてくる。
「毎日泊まるのも迷惑だろうし」
「迷惑じゃない」
夕方。茜色に染まっていたグレイの瞳は蛍光灯の色に照らされている。暖色の蛍光灯に照らされた瞳が不安に揺れた。
寂しいのかもしれない。
須田は寂しがり屋だ。寂しがり屋だからずっと話している。さっきも、風で聞こえないとわかっていても話してきた。
「泊まって」
ぽつりとこぼされた本音に胸が締めつけられる。
「明日、用事あるの?」
「……ない、けど」
「じゃあ、泊まって」
手首を掴まれた。そのまま、椅子に座るように引っ張られる。ずるずると椅子に座り込んだ。
「迷惑だった?」
夜。電気を消した寝室で須田はそんなことをいってきた。弱気な須田は珍しい。ベッドを見上げた。
「迷惑じゃない」
「……急にごめん」
「謝らなくていい」
須田は幼なじみだ。兄弟みたいに育った。小学校も中学校も高校も同じ。寝泊まりだってしている。気にしなくていい。どうしたら伝わるのだろう。
「須田が寂しいときは、一緒にいたい」
電気が消えた部屋にいると、世界でふたりきりな気がしてくる。電気がついた部屋ではいえない本音もいえる。布団に寝転がったまま、くちはするすると本音をつげた。
「俺でいいなら、須田のそばにいたい」
須田には俺以外にも友達がいる。クラスにも、部活にも、友達がいる。バスケットボール部のエースは有名人だ。須田と話したいヤツも、友達になりたいヤツも、たくさんいる。
だからべつに、俺じゃなくてもいい。
須田しかいない俺とは違う。
いま一緒にいられるのは、須田が俺を選んでくれているからだ。いま一緒にいたいのは俺だと、思ってくれているから。
ベッドの上で衣擦れの音がする。むくりと起きあがった須田が布団の上に座った。座ったと思ったら、掛け布団の中に入ってくる。
「……須田?」
掛け布団に入り込むと、須田は俺を抱きしめた。厚い胸に顔があたる。むにゅりと頬がつぶれた。
「な、なに」
いつもはおしゃべりなのに。いまにかぎって須田は黙り込んでいる。心臓が爆発しそうだ。鼓動のスピードは信じられないほど速い。須田にも伝わっている。バレてしまうーー。
「少しだけ」
やっと、須田がくちをひらいた。少しだけ? 少しだけこのままってことか?
また黙ってしまった。どきどきしているのは、俺だけなのかもしれない。その証拠に、須田の胸は規則的に上下している。
「落ち着く」
「……おちつく?」
「智也と一緒にいると落ち着く」
ゆったりとした口調でいわれた。
俺は落ち着かない。須田に抱きしめられて、これほどない距離まで密着して、距離なんかゼロで、落ち着けない。
くちから出てきそうな心臓を必死に宥めた。
「とも?」
黙っていたら、須田が顔をのぞき込んでくる。真っ赤な顔をみられたくなくて顔をそらした。そうしたら、そらしたほうをのぞき込んでくる。右を向いて、左を向いて。逃げる俺の顔を須田は片手で掴んできた。
「なんで顔そらすの」
「……っぶ」
頬を指で押されている。須田はふにふにと頬をいじった。
「顔熱くない?」
「気のせい」
頬を揉まれる。揉んで、引っ張って、少しだけつねって。ボールを触って分厚くなった皮膚に頬を撫でられた。
暗闇のなかで瞳があう。真っ暗な部屋でもグレイの瞳は綺麗だ。暗闇にある唯一の光。じっとみていたら、須田も俺をみた。頬をいじっていた指先が動きを止める。
須田の舌が桃色の唇を舐めるのを、息をころしてみていた。
「……すだ」
そっと名前を呼ぶ。抱きしめてくる身体にすり寄った。このまま、あと一センチ、顔を近付けたらキスができる。唇が触れてしまう。恋い焦がれた唇にーー。
窓の外で猫が鳴く。
ふたりのあいだにあった空気が霧散した。ぼうっと酔っていた俺は、慌てて顔をはなす。広い背中に手をまわし、勢いよく抱きしめた。
「おやすみ」
ぎゅうぎゅう抱きしめる。やけになって抱きしめた。抱きしめあうなんて、小学生以来だ。あの頃はよくじゃれあった。
「……おやすみ」
くしゃりと髪を撫でられる。瞳をとじた須田はすぐに寝息を立てた。
絶対に朝まで眠れないと思っていた。好きな……好きな人の腕に抱かれて眠れるほど、俺は幼くはない。
規則正しい鼓動が胸に伝わってくる。絶対に眠れないと思っていたのに、まぶたが重たくなってくる。
そっと、須田の寝顔をみつめた。瞳をとじた顔はあどけなさが残っている。小学生の……俺が好きになったときの須田と同じだ。
キスすればよかった。
あの流れでキスをしたら、どうなっただろう。雰囲気に流されてくれたかもしれない。須田とキスをするチャンスなんか、二度とまわってこないレベルだ。大チャンスだった。
でも。
キスをして、気まずくなって、須田がはなれていったら……?
友達でいられなくなるのはイヤだ。絶対にイヤだ。
友達でいられなくなるくらいなら、このままでいい。このまま……友達でいい。デッサンした唇にキスをすればいい。
胸がつきりと痛んだ。
「おやすみ」
頬を指の腹で撫でる。まろみの残った頬に唇を押しつけた。
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