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第8話

 須田を避けるうちに、週の半分が過ぎていた。  どうしたらいいか、わからなくなってきた。須田が嫌いなら、悩まない。須田が好きだ。好きだから、これ以上近くなりたくない。近くなれば近くなるほど辛い。  でも、須田を避けるのも辛い。須田の連絡に返信しないのも、須田の誘いを断るのも辛い。  目覚めの悪い朝だ。思い悩むせいで、夜もよく眠れない。  あくびをしながらリビングに降りた。朝食と弁当の用意をしている母さんは、眠たそうな俺に「須田くんとゲームでもしてたの?」といった。 「違う」 「そう? ねえ、今夜、須田くん連れてきて。新入部員が入って忙しいのも、そろそろ落ち着くでしょう。うちで夕飯食べましょうよ」  あくびを噛んだ。 「いいでしょ?」  母さんはいままで通りなだけ。週に一度、須田がうちで食事をするのは「いままで通り」だ。いままで通りになれないのは俺だ。  昼休み。俺は憂鬱な気持ちでA組を訪ねた。弁当の包みを持った須田は、席を立つところだった。 「あ、智也。ちょうど呼びに行こうと思ってた」  嬉しそうな須田が廊下まで出てくる。視線をさまよわせた。乾いた唇を舐める。 「あのさ」 「うん」 「母さんが、今夜夕飯食べに来いって」  須田は「やった」と拳を握る。 「無理しなくてもいいけど」 「部活の新入部員歓迎会も終わったし、行ける。智也の母さんの料理なら絶対食いたいし」 「……わかった」 「なあ、放課後さ。部活終わるまで待ってて。一緒に帰ろ」 「……今日は帰り遅くなるから、俺はパス」 「俺はパスって。智也の家だろ」 「母さん、張り切ってるから。俺の分も食べて」 「帰り遅くなるって、部活?」 「部活……で必要なものを買いに行く」 「なに買うの? 俺も行く。それ買ってから、智也の家に帰ればいいじゃん」 「画材だから、須田がみてもつまんないと思う」 「いや、つまんないとかじゃなくて」 「それに、母さん待たせるのも悪い」  須田は呆れた顔をした。 「買い物は今日じゃないとダメなのかよ」 「……早いほうがいいから」 「ふーん」 「須田に会えるの、母さん楽しみにしてる。部活の話も聞きたがってるよ」  じゃあ、と背を向けようとしたら腕を掴まれた。 「どこ行くんだよ」 「美術室」 「美術部ってそんな忙しかった?」 「いろいろあるんだよ」 「いろいろ?」 「昼休みもやることあるから」 「昼ご飯は食べるだろ? 一緒に食お」 「美術部で食べるから」  掴んできた腕から逃げる。今度こそ、須田に背を向けた。  結局、俺は本当に須田を置いて学校を出た。十六時半の駅前は学生服が目立つ。家の最寄りのファミレスに入った。窓際の席を陣取る。  うちは西口から歩いて十五分。部活終わりの須田は西口に行く。東口のファミレスなら、たぶん、バレない。  母さんには「今日は遅くなる」と連絡をした。須田は家で食事をするとも伝えた。母さんは「あら、そう」というだけだった。夕飯は帰ってから食べるといったので、ドリンクバーとポテトを注文した。このまま夜までねばる。  鞄から出したクロッキー帳を眺めた。手持ちぶさたでいると、マグカップでも描くかという気になってくる。  高校二年生になる今年は、進路を真剣に考える時期。四月のクラス替えも、一年生の成績を考慮してわけられた。理系はCクラスにまとめられている。  言葉にせずとも、日頃の生活態度や成績で進路はみえてくる。A組は推薦と上位国公立・私立大。B組はその他一般大学を志望する生徒になった。  須田はバスケ部の推薦で大学に進学する。歴代のエースの特権だ。運動部はそれぞれ上位私大の推薦枠を持っている。須田も、そのうちのどれかをもらう。  冷めかけのコーヒーにくちをつけた。俺はどうするか、いまだに決めかねていた。推薦組の須田にも相談できない。相談したら、須田は「智也の好きにしたらいい」という。芸術系の大学か専門学校に行きたいと夢見がちな考えを伝えても、笑わずに「いいじゃん」という。  わかっているから、いえなかった。  須田は優しい。客観的に俺をみて、実力をみて、冷静に教えてくれといってもーーいつも肯定してくる。  肯定されたくないんじゃない。須田が俺の絵を褒めてくれるのは嬉しい。絵の上手い下手じゃなくて、智也の絵が好きだ。と、恥ずかしげもなくいってくれるのは嬉しい。  けど、だめだった。最後の一歩を踏み出せない。自信がない。落ちるのが怖い。芸術系の学校の入試に落ちて、絵を学ぶ一歩を拒まれるのが怖い。  小学校に須田が転校してくる前。友達がひとりもいなかった俺は、休み時間のたびに絵を描いていた。絵を描いていたら、だれにも声をかけられない。気を遣ってかけられる声が怖かった。相手の期待通りに話せないから、だれとも話したくはなかった。  絵は、俺と世界に一枚の膜を張ってくれる。薄い膜は世界から俺を守ってくれる。だから、拒まれるのが怖い。絵を学ぶ一歩を拒まれたら、二度と絵を描けなくなる予感すらする。  ぬるいコーヒーをちびちび舐める。クロッキー帳に、左手で持つマグカップの線を引いた。ファミレスの真っ白なマグカップを、白と黒だけで描いていく。一本の鉛筆だけで描く。高級レストランのマグカップでも、インテリアショップに並んでいるマグカップでもない。黒の鉛筆一本で、ファミレスのマグカップだとわかる絵を描く。  鉛筆を走らせるうちに雑念は消える。モヤモヤしていた頭もこころも晴れていく。心臓の奥がスッとした。  軽く描くつもりだったマグカップを丁寧になぞり、幾重にも重ねた線で陰影をつける。  陶磁器のまろみをどう表現するか。  光の加減をどう表現するか。  ない頭で考えているうちに、陽はすっかり暮れていた。  こん、と。右の耳元で音がする。思わず視線を向けた先には、須田がいた。  

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