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第16話
五月の緑は眩しい。アクリル絵の具の緑は比べものにならない。翡翠とも、深緑とも、エメラルドグリーンでもない新緑だ。
たっぷりと水分をたくわえた葉を見上げた。風にそよぐ桜の葉に太陽の光が透ける。絵に描くとして、緑の絵の具一色では描けない。塗って、混ぜて、ぼかして。一枚の葉を描くのに、いったい何種類の絵の具がいるのだろう。
デッサンするとしたらーー。
「来年は桜みよう」
桜の木を見上げたまま、須田はいった。鮭と野沢菜のおにぎりを頬張っている。
「ここ、桜の名所なんだって」
「人多いよ」
「いいじゃん。花見って感じする」
「須田のじいちゃんの家の前の並木も、桜だけど……」
グレイの瞳が細められる。眩しい、とくちの形だけでいった。
「せっかくの花見なら、名所でさ。俺たち以外にもひとがいっぱいいるほうが、雰囲気出るだろ」
須田らしい。大勢に囲まれるのが苦じゃない性格だから、そう思うんだろうな。
「ともがどうしてもイヤなら、じいちゃん家でもいいよ。庭のテーブルでケーキでも食う?」
新緑を見上げる須田の横顔をみつめた。桜の葉を通り過ぎた光がグレイの髪を透かす。
眩しい。
グレイの髪が眩しい。須田が眩しい。太陽よりも眩しい。
「智也?」
グレイの瞳が俺をみる。水分をたっぷりたくわえた葉に負けない、生命力に満ちた瞳。この瞳が好きだ。須田の瞳が好き。俺にはできないまっすぐな瞳。
「いいよ。桜が咲いたら、またきても」
「やった」
「お花見弁当つくって」
「もちろん」
須田はにっこりと笑った。
つぎに桜が咲くのは来年の春。高校三年生になる春。その頃俺は、どうしているのだろう。
須田ともーー友達のまま、なのかな。
三段の重箱にぎっしり詰まった弁当は、ふたりで食べるには量が多すぎた。早々に満腹になった俺の隣で、須田は黙々と食べ続けた。米粒ひとつ残さずに完食すると、レジャーシートにごろりと寝転がる。
「やば……」
「無理して食べなくても」
「最近暑いし、いま食べとかないと腐るから……」
いつもよりも小さい声でいった須田は、ゆっくりと瞳をとじた。グレイの髪を風がなでた。そのまま寝息を立てはじめる。
紙カップの紅茶をくちに含んだ。ぬるくなった紅茶が食道を流れる。アールグレイの香りが鼻腔をぬけた。
三段めのデザートも美味しかった。大きな水筒の紅茶とあわせると、どんなガーデンカフェよりも上等な時間になった。
甘党のおじいさんに鍛えられた須田は、甘いものにあう飲み物にも詳しい。バニラエッセンスのきいたパウンドケーキとタルトにアールグレイはぴったりだった。
しばらく須田の寝顔をみたあとで、リュックサックからクロッキー帳を取り出す。出かけるときは、いつもクロッキー帳を持ち歩いている。なにも描かずに帰る日も、公園やカフェでデッサンをして帰る日もある。
クロッキー帳はお守りだ。外で時間をもてあましたとき、逃げ場がほしいとき。クロッキー帳と鉛筆一本あれば、外の世界とのあいだに一枚の膜ができる。
穏やかな寝顔をみていると、ついデッサンを描きはじめていた。寝ている須田の顔を描くのは、はじめてではない。いままでにも、何枚も寝顔を描いてきた。
いま、俺が持っているクロッキー帳には、須田の寝顔の絵が何枚もある。バスケットボールを両手に持つ須田も、シュートする須田も、料理をする須田も。隠れて描いた須田の絵を見返しては、自分で描いた須田にキスをした。ただの絵にキスをするたびに、こころが震えた。
冷たいクロッキー帳の須田は熱がない。唇を押しつけても、紙の冷たさしか感じない。冷たくてかたい。薄いクロッキーの紙は、須田の絵の裏に俺の唇の熱を染み渡らせる。
薄い紙に、何度唇を押しつけたか。覚えていない。覚えていないほど、何度も唇を押しつけた。 鉛筆でグレイの髪を描く。さらさらの髪には何度も触れた。さらさらした感触を知っている指先は、なめらかにグレイの髪を描いていく。
まだまろみのある頬にも触れた。柔らかくてあたたかい頬のぬくもりも知っている。広い肩も、脈打つ首筋も、高い鼻筋も、ぬくもりも感触も知っている。
鉛筆で、クロッキー帳の上の唇をなでた。唇のぬくもりと感触は知らない。唇だけは知らない。 だから、想像でしか描けない。
須田の唇はふっくらしている。それから、いつも潤っている。皮もめくれていない。かたちのいい唇は左右均等にある。ふっくらとした唇は大きく開く。小振りなくちにみえて、須田はくちが大きい。ふざけて入れた拳がすっぽりと入るのを、みたこともある。
整った顔に似合う唇。なのに、大きく開く。よく笑って、よく喋って、よく食べる。
鉛筆を唇の上で止めた。
寝顔は描いた。唇も描いた。完成した。
完成したはずなのに、どこか足りない。
唇のぬくもりを表現したい。デッサンの唇に体温のぬくもりをのせたい。
ねり消しを唇の端にあてた。少しだけぼやかしてみる。上唇の谷にもあてた。輪郭がはっきりしていると印象が強い。鋭利な印象は物体を冷たく感じさせる。境界線をぼやかせば、ぬくもりを表現できるかもしれない。
試行錯誤を繰り返してみた。でも、だめだ。須田の唇のぬくもりを描けない。
俺が、知らないから。須田の唇のぬくもりを、熱を、柔らかさを。
知らないから、描けないのかもしれない。
ねり消しで唇を全部消そうとして、やめた。
表現は無限だ。自分の知らない土地の絵も描く。ぬくもりを知らなくても、ぬくもりを「知っている」ように描く人はいい絵描き。ぬくもりを「知らないと」描けない人は、並だ。
クロッキー帳を閉じた。デッサンをしているあいだに陽が傾いてきた。ピクニックを楽しんでいた人たちも片付けをはじめている。
そろそろ、須田を起こそう。
そう思って横をみると、グレイの瞳が俺をみていた。
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