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第17話
思わず固まった俺に、須田はにやりと笑う。さっきまで、頭を悩まされた唇が弧を描いた。
「寝顔描いた?」
「……描いてない」
気恥ずかしい気持ちがジャマをする。正直になれない。それに、寝顔をみるだけでも無粋なのに、無許可で描くなんて。変態みたいだ。
隠れて描いた絵にキスをする俺は、もっと変態。
後ろめたくてうつむいた。
「寝顔描いてないの?」
「描いてないよ」
「なんで?」
「なんでって……」
「智也は人間は対象外?」
「……どういう意味?」
「このあいだ、ファミレスでマグカップ描いてただろ。人間を描いてるところは、あんまりみないから。俺がねんざしたときは描いてくれたけど」
須田のいう通り、俺は人前で人間を描かない。描きたいと思う人間は須田以外にいない。須田を人前で描くのは恥ずかしかった。美術部で描いていて、俺以外の部員がきて、須田のデッサンをみられてーー絵の奥にある感情まで読みとられたら?
考えるだけで、ぞっとした。
須田への想いを知られたくない。知られて、バカにされて、オモチャにされたくない。他人に消費された挙げ句、須田に伝わってしまったらーー。
友達ではいられなくなる。
友情以上の想いを抱いた俺を、須田は軽蔑するかもしれない。軽蔑して、嫌悪して、絶交されたら。俺は生きていけない。
唯一の友達に絶交されたら。好きな人に絶交されたら。どうやって生きていけばいい。
生きていけない、なんて思う俺は。なんて重い人間なんだろう。情けない。
「人間は……あんまり描かない」
クロッキー帳の背を握りしめる。リングが手のひらに食い込んだ。ウソでも……ない。人間は須田しか描かない。隠れて描いた須田以外に人間の絵はない。
「猫は?」
「ねこ?」
「生き物はあんまり描かない?」
「猫は……描く……」
レジャーシートの横を野良猫が通りかかった。黒猫は長いしっぽを揺らめかせている。須田は後ろから黒猫を捕まえた。両手で抱きかかえる。
「ちょっと」
「描いて!」
「放してあげなよ」
突然、四本の手足が宙に浮いた黒猫はしっぽを股のあいだに入れた。にゃあ、と心細く鳴いている。須田が膝の上にのせて抱くと、足が地について安心したのか黙った。
「はやくはやく」
「……描いたら放す?」
「うん」
黒猫と目があった。コッパーの瞳が「はやくしろ」といってくる。
「……わかった」
クロッキー帳を慎重に開いた。隠れて描いた須田の絵ばかりのクロッキー帳だ。慎重に開かなければ、須田にバレてしまう。
さっき描いた寝顔のつぎの、つぎの、つぎのページを開いた。万が一、風でページがめくれても大丈夫なように。
黒猫に頬を寄せる須田は満面の笑みを浮かべた。
軽くデッサンをする。黒猫はあまり長い時間は耐えられないだろうから、輪郭を中心に描いた。デッサンは本来、細部まで描く。抽象画のように輪郭だけを意識するのは邪道だ。
でも、輪郭を捉えられなければ細部は描けない。デッサンはすべての基礎であり、派生だ。
描いた絵のページを破った。黒猫がにゃあと鳴く。
「描いたよ」
ページを渡すと、須田は黒猫を手放した。黒猫を捕まえていた手がページを受け取る。逃げ出した黒猫は須田の周りを二周して、桜の木の向こう側に駆け出した。
「俺は?」
須田は描かなかった。絵に反映される感情を、視線を、みられたくない。万が一、須田が俺の感情に気がついてしまったら、取り返しがつかない。
拗ねながら絵をみていた須田は「でも」といった。
「すげぇ」
「……大したことない」
「そんなことない。智也はいい絵描くよ。猫だけじゃなくて、俺も描いてほしかったけど!」
クロッキー帳の一ページ。ただのデッサンを、須田は額入りの名画をみる顔でみた。そんな風にみられると恥ずかしい。短時間で描いた落書きだ。
「智也の絵、久しぶりにみた」
「……恥ずかしいから返して」
「これ、欲しい」
「そんなのもらってどうするの」
夕陽が黒猫と須田のデッサンを照らす。白い紙に描いた鉛筆の黒を夕陽が紅く染めた。グレイの瞳も髪も、デッサンと一緒に紅に染まる。
「額に入れて飾る」
「やめて」
須田は口角を上げた。俺の知らないぬくもりを持つ唇が言葉をつむぐ。
「このあいだの絵も、みたい」
「このあいだ?」
「俺がねんざしたときの絵」
クロッキー帳をリュックサックにしまい込む。須田に「ほかの絵もみたい」といわれる前にしまった。
「……完成したらね」
「デッサンに完成とかあるの?」
「あるよ」
「途中経過もみたい」
俺、智也の絵好きだからさ。
屈託のない笑みをともなってつむがれた言葉に、胸が高鳴った。
「智也が絵を描いてるとこをみるのも好き。描いてるとこもみせて」
「そろそろ練習試合で忙しいんじゃないの。放課後に絵をみる時間あるのかって、キャプテンに怒られるよ」
「放課後じゃなくてもいいじゃん」
「あの絵は大きいから、美術室じゃないと描けない」
「そうなの?」
「そう」
適当にいって立ち上がる。レジャーシートの横に置いてあったスニーカーを履いた。
「陽が暮れる前に帰ろう」
バイクで俺を家まで送った須田は、おじいさんの家に戻った。荷物を持って……わざわざ制服に着替えてから、電車で実家に帰るらしい。
家の前で須田を見送った。
「GW最後の一日も俺と遊んで大丈夫だったの? 宿題終わってる?」
借りていたヘルメットを須田に返す。須田はヘルメットをバイクの荷物入れに仕舞った。
「四月中に終わらせた」
「……あれだけバスケしてたのに?」
「やらなきゃいけないコトが残ってると、気持ち悪いだろ。どうせやるなら、早く終わらせたほうがいい」
優等生らしい回答。
「智也こそ、終わった? 宿題写したいなら、じいちゃん家泊まる?」
「終わってるよ」
「あっそ」
須田は残念そうにいう。
「今日は家帰る?」
ヘルメットからみえている瞳が曇った。
「……帰りたくない」
「須田」
「合宿で……家以外のところに何日も泊まったせいだと思う」
分厚い胸板が上下する。深く息を吸って吐いた須田は、バイクのハンドルを強く握った。
「明日な」
「……うん」
「遅刻すんなよ」
「須田こそ。疲れてるからって、寝坊しないでね」
「はは、うん」
「……でも、本当に疲れてるなら、休んでもいいと思う」
ふっくらした唇がゆるんだ。
「俺さ」
「うん」
「智也の……そういうとこ、好き」
息が止まった。
呆然とする俺に、息を止めた張本人が笑いかけてくる。
「今日、楽しかった。また遊びいこ」
「……ん」
言葉が出てこなかった。小さく頷く。
アクセルを踏み込まれたバイクが遠くへ走っていく。小さくなる背中を、いつまでもみつめていた。
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