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第23話

 六限にも出なかった。五限の終わるチャイムで須田は教室に戻った。泣き腫れた瞳の俺をひとりにしてくれた。  保険医は、俺の泣き腫れた瞳をみて顔色を変えた。体調が悪くて泣いたと思われた。  ーそんなに体調が悪いなら、早退してもいいのよ  優しくうながされた。首を振った俺は、六限が終わり、放課後の部活がはじまるまで眠っていた。 「中谷くん。保護者の方に迎えにきてもらおう」   カーテンを開けた保険医は、担任に連絡しようとしていた。 「ひとりで帰れます」 「いいのよ。すぐに電話するから」 「今日……。親、いません」  ウソをつくのは苦手だ。なのに、スラスラとウソを並べた。 「祖父母の家に、泊まりで行ってます」  保険医は「そう……」と電話から手をはなす。 「なら、タクシー呼びましょう」 「歩いて帰ります」 「中谷くん」 「大丈夫です。寝たら、だいぶ良くなりました」   ぺこりと頭をさげて保健室を出た。教室に戻って鞄を取る。放課後の教室には、女子生徒が数名たむろしていた。 「中谷くん」  そのうちのひとりが声をかけてくる。 「体調悪いんだよね、大丈夫?」  気を遣ってくれている。反応しないと、いけない。  俺はあいまいにうなずいた。胸に鞄を抱いて、足早に教室を出る。下駄箱までの道が長く感じた。  家に帰った俺は、リビングにろくに顔を出さなかった。声だけで帰宅を告げる。自分の部屋に、一刻も早く帰りたかった。  母さんはなにかいっていたけれど、返事もしなかった。背中をドアに押しつけて座り込む。ベッドまで歩けなかった。  堪えていた涙がこぼれる。乾いたはずの頬を涙が濡らした。須田は本当に遠くに行ってしまうのだろうか。遠くに行ってしまっても、本当に「変わらない」のだろうか。  物理的な距離は、こころの距離もーー。  ああ、そっか。  須田の思う俺とのこころの距離は、俺の思う須田とのこころの距離とは違うんだ。  のどの奥から笑いがこみ上げた。くつくつと笑う。泣きながら笑う自分が気持ち悪い。バカみたいだ。こんなに好きになって、こんなに苦しくて、こんなに惨め。  両手で目元を覆った。手のひらに瞳を押しつける。ぐちゃぐちゃになった顔が乾く間もないほど、涙が出た。  どのくらい泣いていたのか。  泣きすぎた頭はガンガンと痛む。痛む頭に反して、妙にすっきりとしていた。座り込んでいた床から立ち上がる。背もたれにしていたドアが軋んだ。  勉強机の引き出しを開ける。中には、デッサンを描き溜めたクロッキー帳が入っている。一冊取り出した。ぱらぱらとページをめくる。マグカップ、須田、携帯電話、須田、林檎、須田、須田、須田、須田、須田、須田。  バスケットボールをしている須田、料理をする須田、うたた寝をする須田、俺に笑いかける須田。  ときには隠れて描き、ときには記憶を頼りにして描いた。  デッサンが好きだった。色のない世界は、周りに馴染めない俺の世界に似ていた。  デッサンが好きだと思っていた。もしかしたら、俺は、須田を描くのが好きなだけなのかもしれない。  友達ができないと思っていたのも勘違い。俺が須田以外と話したくないだけ。  デッサンを好きだと思っていたのも勘違い。須田を描くのが好きなだけ。  そうだとしたらーー。  須田がいなくなったら、俺にはなにが残るの。  デッサンの須田を指先でなぞった。俺に笑いかける須田は眩しい。こんな笑顔は、俺にしか向けてくれないと思っていた。  みんなに向ける笑顔なのかもしれない。  それか、向けてもいない笑顔を、俺が妄想しているだけ。  恋というフィルター越しにみている。俺の瞳が、おかしいのかもしれない。  指先でデッサンの唇をなぞる。冷たい紙をなぞった。ふっくらとした唇は、どんな触感がするのだろう。  唇のぬくもりを知りたい。柔らかさを知りたい。味を知りたい。  どうしようもない衝動にかられる。引き寄せられるままに、デッサンの須田にキスをした。 「智也。だいじょう、ぶ」  ドアの開く気配にすら、気がつけなかった。

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