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第29話

  風呂をあがった須田は、ダイニングテーブルに腰掛けた。冷蔵庫から出したお茶をグラスに入れると、俺に手渡した。。  うつむいていた顔がゆっくりと上を向く。 「母さんから電話いった?」 「……うちの母さんにね」 「そっか。さっき、智也が風呂に入ってるあいだに携帯みた。何回も連絡くれてたのに、返さなくてごめん」  須田は深呼吸をする。ふたつめのグラスに入れたお茶を飲み干す。おじいさんの家のお茶はいつも美味しい。ジャスミンの華やいだ香りが鼻腔をぬけた。 「じいちゃん、風邪をこじらせたみたいでさ。夕方に入院した」  整った指先がグラスをいじる。グレイの瞳に俺の顔がみえた。 「昨日の夜、じいちゃんに電話したら具合悪そうで……。心配になって朝も電話したら、大丈夫っていう声が明らかに大丈夫じゃなかった」  須田はおじいさんに「いつでも連絡して」といった。今日の昼休み、しきりに携帯を気にしていたのは、おじいさんからの連絡がないかみるためだ。 「五限がはじまってすぐに、じいちゃんが救急車呼んだって連絡が病院からきた。母さんに電話してもすぐにはつながらないだろうから、緊急連絡先は俺の携帯にしてある。普段は電話かかって来ないから、電話かかってきただけでじいちゃんだってわかった」  須田は「緊急連絡先を俺にしてあるの、じいちゃんにはナイショな。もうバレただろうけど」と続けた。 「じいちゃんが真面目に、緊急連絡先カードを持ってくれていてよかった。高齢者だからって渡したけど、持ってくれてるとは思わなかった」  救急車のなかで、おじいさんは救急隊員に緊急連絡先カードを渡した。救急隊員からカードを受け取った看護師は、須田に電話をかけた。 「じいちゃんの容態は」 「安定してる。ただの風邪だって、笑ってた。祐一は心配性だな、だってさ」  須田は深く息をした。 「昨日、じいちゃんの体調が悪いのを知ってから、ずっと落ち着かなかった。イライラしてた。智也にもあたった。ごめん」  よかった。俺がなにかをしたんじゃ、なかった。あのキスを考え直して、俺に苛立っていたんじゃあない。 「気にしないで。じいちゃんが体調悪かったなら、いつも通りだったらおかしいよ」  須田は「うん」という。 「……須田のお母さんには連絡した?」 「……うん」 「そっか」 「……智也の母さんにも連絡した」 「俺の?」 「智也がずぶぬれになったのは俺のせいだろ。謝ろうと思って。あと、智也がここにいるっていうのも、知らせたほうがいい」 「……母さん、なんていってた?」 「心配すぎて怒ってた。智也の母さんに怒られたの、小学生ぶりかも。俺も智也も親の気持ちを考えなさすぎだって」  須田は苦笑いを浮かべる。 「あとで電話して」 「……うん」  置き時計は夜の一時をさしている。家を飛び出してから、長い時間が経っていた。 「ずぶぬれの智也をみたとき、智也までいなくなったらどうしようって。思った」  ベッドのなか。須田は静かにいう。抱きしめられる俺は黙って聞いた。 「あのままじいちゃんがいなくなって、智也もいなくなったら……おれ」  幼い子供のようだ。俺をかき抱いてくる須田はグレイの瞳を伏せる。 「俺はどこにもいかない」  須田が望んでも、望まずとも、どこにもいけない。  須田に好きな人ができても、恋人ができても、結婚しても。須田から離れられない。  須田は俺をみつめた。グレイの瞳をみつめるうちに、桃色の唇が重なっていた。  はじめてするキスは、涙の味がした。

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