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第35話

 土曜日の朝。胸の痛みをごまかしながらスニーカーを履いた。俺の友達付き合いに口出しをする権利は、須田にはない。 「……須田には、俺以外にも友達いるくせに」  無意識のうちにつぶやいていた。未練がましい。   須田にも、俺しか友達がいなければよかった。 俺しか友達がいなければ、俺たちは互いにとって唯一無二の友人だった。  スニーカーのつま先で玄関の床を蹴る。未練がましい自分を責めた。そんなわけない。唯一無二の友人でいたとしても、俺はきっと満足しない。   俺は須田のーー恋人になりたい。  胸の奥に、なにかがすとんと落ちた。俺は須田の恋人になりたかったんだ。  あまたいてもかまわない友人では満足できない。  須田にとって、ひとりしかいない恋人になりたい。  ひとりしかいない恋人になって、須田をひとりじめしたい。俺だけの須田になってほしい。  乾いた笑いがこみ上げた。俺以外の人間と話す須田をみたときに感じる嫉妬心は、友達をとられる嫉妬心じゃない。  恋人でもないーー俺のモノでもない須田をとられたくない独占欲だった。  広尾は上野駅で俺を待っていた。待ち合わせ時間の十分前だ。謝ろうとした。 「ごめん。待ち合わせ時間、あの」 「朝早くに目が覚めたから、先に上野公園散歩してた。気にするなよ」 「……そう、なんだ」  広尾はアメ横を指さす。 「アメ横で朝飯食って、そのあと散歩してた。ヒマになったから駅に戻っただけ」  待ち合わせ時間を間違えたのかと思った。それか、友達とでかけるときは、時間より早く待ち合わせ場所にいないといけないルールがあるのかもしれないと怯えた。家族以外では、須田としか出かけたコトがない。友人間のルールがわからない。  広尾はドギマギする俺を気にしなかった。ポシェットから二枚のチケットを取り出す。 「昼すぎの美術館は混んでるかもしれないから、先にチケット買っといた」 「あ、ありがとう。チケット代、わたす……」  その場で財布を出そうとしたら、後ろから歩いてきたサラリーマンにぶつかられた。サラリーマンは、改札前でのろのろしていた俺に舌打ちをする。 「あとでいいよ。行こう」 「でも」 「特設展は入場列に並ぶからさ。そのあいだに渡して」  上野公園のほうへ、すたすた歩く広尾を追いかけた。  緊張した俺は、美術館の絵を満足にはみられないと思っていた。広尾の顔色ばかりを気にすると思っていた。 「画家の半生にあわせた展示方法は、特設展ならではだよな。面白かった!」 「……うん」  おかしいな。思っていた俺と違う。最初は広尾の顔色を気にしていたのに、絵を鑑賞しはじめると気にならなかった。広尾はひとりで展示をみてまわるので、俺も自分のペースでみてまわった。広尾のペースにあわせなくても、ヘンな空気にはならなかった。  口裏をあわせてもいないのに、部屋が変わるごとに相手の姿をなんとなく探した。なんとなく付いてきているのを確認してから、新しい部屋の展示をみた。広尾が先を歩いているときも、俺が先に歩いているときもあった。  最後のグッズコーナーで画集を買った。広尾も画集を買っていた。  買ったばかりの画集を、公園内のカフェで眺める。広尾はブラックコーヒーを飲みながら、ひとりごとのように展示の感想を話した。 「あの画家は生前、商業的な絵は評価された。反面、本当に描きたかった民族意識の絵は評価されなかっただろ? いままで日本でおこなわれた展覧会は、商業的なデザイン画ばかりが評価された。  実際、商業的に売れただけあって、いまでも女性人気が高い。ここにきて、民族意識の絵をメインにした展覧会をして、画家の再評価をするっていうのは面白いよな」  ぶつぶついう広尾の話にうなずく。小さくうなずいた俺に、広尾は「だよな」という。鼻筋にのせた眼鏡を指先でなおした。 「広尾は……本が、好き、なの?」  毎日本を読んでいる男には無粋な質問だ。昼休みまで、ひとりで弁当を食べながらページをめくっている。好きじゃなかったら、そこまで読まない。  ずれた質問を広尾は笑わなかった。 「好きだな。今回の展覧会も、絵画だけだったらみようと思わなかった。展示のテーマ性が面白そうでさ。画家の半生を追いながら、時代背景や甚爾の思想を交えてみるのはいいなって」 「……そうなんだ」  広尾はコーヒーのカップを揺らす。 「ペア割りだと半額になるから、一緒にきてくれて助かった」  俺と展示に行っても、つまらないんじゃないか。せっかくの休日に俺なんかと出かけたら、広尾は後悔するんじゃないか。  約束をしてから、頭のなかで悪い予想ばかりぐるぐるしていた。  現実は違った。  広尾は俺に「助かった」といってくれる。ペア割りで絵をみられるなら、だれでもよくても。俺を誘ったことを後悔していないだけで、安心した。 「おも」 「うん」 「おもしろ、かった、俺も」  上手く話せない。どもる俺に、広尾は「だよな」といった。 「中谷ときたら、楽しいと思ってた」  胸にあった不安が腫れる。  なんだ、思っていたことなんて、なにひとつ起きないじゃないか。 「須田は中谷と俺が話してるとこわい顔するだろ? いつ誘おうか迷ってた」  また美術館にいこうと、なんでもないように誘われる。ずっとみるだけだった友達との会話。ずっと昔に須田としてからはしていない。  忘れていた。友達って、つくろうと思ってつくるものじゃなかった。  広尾と連絡先を交換した。  はじめて、須田と家族以外と連絡先を交換した。  ふつうの高校生にとっては当たり前。俺にとっては奇跡。  上野駅で広尾と分かれたあとも、足下がふわふわする。カフェを出る前に交換した連絡先をみつめる。ディスプレイが暗くなるごとにタップした。  嬉しかった。  自分をまともな人間に思えた。  十七歳にもなって、他人とまともに話せない俺なんかと連絡先を交換してくれる人は出てこないと思っていた。 「あ」  ふと気がつく。いままで俺は、須田のほかに連絡先を交換したいと思った人はいただろうか。携帯電話を持った日。須田とはまっさきに連絡先を交換した。クラスで連絡先を交換する波があっても、俺は我関せずでいた。  広尾に「連絡先教えて」といわれたとき、自然と携帯を出していた。  広尾とは友達になれそうな気がする。  ふわふわした心地で地元の改札を抜ける。気分がいい。散歩してから帰ろうとした。 「智也」  西口のファミレス側に出ようとした俺を、鋭い声が呼び止める。ふわふわしていた地面はかたくなった。 「遅かったな」  振り向いた俺に、須田はひらひら手を振った。

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