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第9話 佐波氏 2
二人の食事は、終始、佐波氏のリードで進んだ。聞き上手でリードが絶妙だった。
「僕は運転があるから、ほうじ茶をもらおう。
キミは飲めるのかな?」
「いえ、俺も飲みません。」
「いや、飲んだ方がいい。」
勧められて清酒を一杯飲んだ。冷酒は乾いた喉に美味かった。飲み慣れていないのですぐに酔いが回ってきた。口当たりが良くお代わりをした。
酒の力を借りて、思いのたけを語ってしまった。佐波氏が誘導するのが上手いのだ。
「ずっと、気づかなかった。自分が普通じゃない事。女の子と付き合って初めてわかったんです。
俺は、男が好きだ、と。」
佐波氏は驚いたことに俺の手を握ってくれた。その手に恋心を抱いてしまった。
「よし、よし、辛かったんだね。」
俺は馬鹿みたいに涙を流した。手を握ってくれるその力強さに安心してしまった。
一通り話を聞いてくれて、いい加減な答え方をしない、大人の対応。
「送っていくよ。家はどこ?」
その頃、住んでいたのは四谷だった。坂の下。若葉町というところ。近くにラジオ局があった。
下町だった。佐波氏は世田谷だ、と言って、逆方向だが送ってくれた。
帰り際に固い握手。暖かさが手から伝わって来た。
「また、研究室においで。
週の半分は病棟だ。精神科。」
「はい、ありがとうございます。
そして、ご馳走様。」
先生はブレーキランプを光らせ、帰って行った。
俺はしばらく放心状態だった。特に何を話したわけでもない。ただ一人でしゃべった。余計な事までしゃべった気がする。
自分の事を心ゆくまで話し、聞いてもらう事がこんなにも幸せなんだ、と初めて知った。
熱心に話を聞いていただけで、共感してくれたかどうか、はわからないのに、わかり合えた、と勘違いした。佐波氏には全く悪意なないだろう。
この心に芽生えたのは、きっと愛だ。
帰ってきてすぐにまた、佐波氏に会いたくなる。話を聞いて欲しくなる。
今夜の俺は冗舌だ。
俺は知る由もなかった。佐波氏は、フロイトの精神分析学研究の日本での第一人者だった。
聞き上手で、ではない。それが彼の研究だった。
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