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第30話 帰るところ

 夏油温泉から帰って来た。佐波氏は用意周到に、俺の帰る所を奪った。  佐波氏の所有するマンションに連れて行かれた。あの桜新町の瀟洒な家は別れた妻に渡したと言っていた。  俺の九十九里のアパートは引き払われていた。 もう帰るところはない。 「これからは二人で暮らすんだよ。 いつも一緒だ。」 「先生、仕事は?」 「まだ、医者なんだ。時々医局に顔を出す。 患者にも会いたいしね。  そうだ,貴也も入院すればいい。」 「えっ?」  恐ろしい事を言い出した。 俺を狂人にして拘束しようというのか?  措置入院、医者の権限で出来てしまう。 「そんな事をしたら先生を嫌いになるよ。」  佐波氏は俺に抱きついて、泣いた。 「え? 先生、なんで?」 「もう先生と呼ばないでくれ。 龍一と呼んで欲しい。一人の人間として愛し合いたい。」  愛情のバランスが傾いている。重すぎる愛。 「りゅういち・・ 俺の事がそんなに好きなの? ティーンエイジャーみたいだね。」  優しく肩を抱かれてたくさんキスをした。 りゅういち、と呼ぶのが気恥ずかしい。  龍一の顔を両手で挟んで見つめる。綺麗な顔は少しも嫌じゃない。顔だけじゃない。  その表情が好きだ。ちょっと憂いを秘めた聡明な眼差し。難しい講義の時の硬い表情。  全部好きだった。こんな性に貪欲な男だと思わなかった。そのセックスに溺れている。 「でも、勝手な事は嫌だ。 龍一は人の心も操れると思ってるんでしょ。 それが嫌だ。先生に憧れてたんだ。」 「私とセックスしたかったんでしょう?」 「その言い方。身も蓋もない。」   獣のようにセックスばかりするのはもう嫌だ。 「ワイン飲もう。ゆっくり座って。」 「約束して。セックスに持ってかないと。」 「わかった、抱きたくなったら、貴也に懇願するよ。お許しが出るまで襲わないよ。  貴也は我慢できるかな?」 「うん、自信ないよ。 欲しくなったらそういうよ。  これからのことを話そう。」 龍一は、机の引き出しから、ビー玉を取り出した。灯りにかざした。 「シュールレアリスムは、ビー玉の中の空気の泡だ。閉じ込められている。」

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