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第75話 詩音
「詩音が目覚めたら、貴也に紹介するよ。」
「しおんっていうの?男だよね。
すごく綺麗な人だった。」
俺はさっきまでの攻撃的な気持ちが消えてしまった。絶望から来る諦めだろう。
「いつから?
いつから愛し合ってるの?」
「待って、貴也。愛し合ってなんかいない。
ただのセックスだよ。」
「セックスしたんだ・・」
「心までは取られてない。」
貴也は、龍一が何を弁明したいのか、理解に苦しんだ。
「患者さんが龍一を欲しがったら、いつも、身体を差し出すの?」
「そんな事はないよ。詩音が初めてだ。」
「しおんって言わないで。」
親しげな龍一の言葉に少しの愛が混じっている気がする。ジェラシー。
バスローブから見えている筋肉質な身体。貴也だけを抱きしめる大胸筋だった。
そんな事に安心していた。自分だけだと信じていた。何の根拠もない。
貴也は立ち上がった。
(ここではない、どこかに行かなくちゃ。)
『暖家』は木曜日が定休だ。もう朝だ。木曜日になった。
(俺は龍一を失ったらもう帰る所もないんだ。
仕事に穴をあける心配なんかしてる場合じゃないな。今更あのお屋敷には帰れない。組長は龍一を叱ってくれるだろうか。
パパに泣きつく子供か、俺は。)
一瞬で、そんな自分の行く末を考えてしまった。
「私は貴也を失いたくない。」
「もうダメでしょ。」
「龍一、どこ?」
目覚めた詩音が龍一を呼んでいる。
ベッドルームから俺のバスローブを羽織って、スタイルのいい男が起きて来た。
龍一を見つけて抱き付く。
「怖かった。目覚めたら一人だったから。」
首に抱きついてキスを強請る。
優しくくちづけしてやる龍一を見て
(これが絶望か。)
ぼんやりそんな事を考えた。再度、立ち上がって帰ろうとした。ここにいる理由がない。
「待てよ!貴也、私を捨てないで。」
「龍一がそれを言う?」
みんな欲張りだ。自分の物は何一つ無くしたくないんだな。
龍一の声に僅かでも期待している自分が惨めだ。引き止めて、俺を選んで欲しい、と思う自分が惨めだ。
早く出て行こう。
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