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第11話

 俺は、あれからヘッドフォンを外すことなく、頑張って勉強した。幸いにも壁を蹴られることもなく、ドアの開閉の振動もわからなかった。  いつものように、ラジオ体操をして掃除して、昼前から雨予報だったから、洗濯は明日にした。  で、お湯を沸かそうとコーヒーケトルに水を入れていたら、コンコンとドアをノックする音。 「榎本です…」  えっ?芙実君? 「はぁい」  ドアを開けると、また今日も爽やかな笑顔だ。 「おはようございます。はい、これ」  そう言って差し出されたのは、先週と同じ袋。田ノ上焙煎所の豆だ。 「えっ?…」 「口止め料…先週のとは違うやつだから、これもお薦め」 「あっ、どうも…今から淹れるとこだから、よかったら」  芙実君は、俺のその言葉を待っていたかのように、お邪魔します、と言って部屋に入ってきた。 「藤澤さん、コーヒー淹れるの上手いよね…本当言うとね、昨夜から藤澤さんのコーヒー飲みたかったんだ」  また、にこやかな顔でそんなこと言って…惚れるじゃないか…っていうのは冗談だけど、芙実君は人たらしの素質はあるな。 「先週、もらった豆も芙実君のお薦めだったのかな?」  うん?…俺なんか変なこと言ったかな…芙実君は俺の顔を見て、なんかニヤついてるぞ。 「藤澤さん、今俺のこと、芙実君って言った」  うへっ…しっしまった。いつも心の中で勝手に芙実君って言ってるから、つい本当に言ってしまった。  俺は顔が赤くなるのを見られないように、下を向いて一心不乱にミルで豆を挽いた。カリカリ… 「俺も、藤澤さんのこと、下の名前で呼ぼうかなぁ…いいでしょう?」  はい。どうぞ、ご自由に… 「藤澤さんって、いくつ?」 「二十七」 「俺より一つ上か…じゃあ、圭太さんだな」  名前、覚えてくれてたんだ。 「あぁ…ごめん。圭太さんっていうのは母親みたいだからちょっと」  うちの母は、何故か小さい時から子供をさん付けで呼ぶ。 「そっか…じゃあ、圭ちゃん」 「あぁ、それは、親戚の叔父さんが…」  太田の叔父さんは元気にしてるかな…  あっ、まずい。芙実君の口がへの字になってる。 「ねぇ…下の名前で呼ばれるの嫌だったら、そう言ってよ」 「ごめん。嫌じゃないよ…本当。圭太でいいよ」  芙実君はしばらく俺の顔を見て、圭太、コーヒー早く飲みたい、って。やっぱ人たらしだ。

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