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1 ※モブユン ※
あたかも夜というに似つかわしい二十時半ごろ、俺は自宅マンションに帰宅した。
二十階建てタワーマンション内ののぼりのエレベーターに乗り込み、そこから十八階のフロアへとおりる。そしてエレベーターから出てすぐ右に曲がり、二番目にあるこの部屋の扉こそが、俺の自宅の玄関扉であった。
俺は今日朝から仕事で出かけていた。俺の職業は小説家である。普段は家の自室を兼ねた書斎でばかり仕事をしている俺だったが、今日ばかりは新作の打ち合わせのため、めずらしく朝から出版社へと出向いていたのだった。
打ち合わせは思いのほか長引いてしまった。
それで帰宅時間が二十時も三十分以上すぎた時刻となってしまったのである。いや、帰り道に寄り道をしたというのもあるのだが。
しかし、今日という日に外に出る口実が得られたのは俺によって都合がよかった。そう、寄り道…――俺の片手には大きな茶色い紙袋の紙の取っ手が握られている。またその袋に差し込まれている二本の黄色い薔薇は、その二輪の黄色い頭ばかりをそこから覗かせていた。
俺、九条 ・玉 ・松樹 は、このマンションの一戸を、愛する夫月下 ・夜伽 ・曇華 との「愛の巣」にしていた(ちなみに彼は普段あえて旧姓の「月下」を名乗っているが、戸籍上は九条 ・夜伽 ・曇華 である)。
八畳のリビングルーム、キッチン、浴室、トイレ、六畳の二人の寝室が一部屋、そして書斎を兼ねた俺の自室とユンファさんの自室はそれぞれ四畳半ほど、家族が増えればいささか手狭かもしれないが、二人で住むには十分すぎるほどの部屋だった。
俺の夫、月下 ・夜伽 ・曇華 は大変な美男子である。
――しっとりとしてなめらかな艶のある青白い肌、美貌のその細面 には、何か狼のような引き締まった冷ややかで鋭い美しさがある。
鴉 の濡れ羽色の艶美な黒髪、凛々しい端整な黒眉、涼やかな切れ長のツリ目がちなまぶた、美男子らしく瀟洒 した印象の高い鼻、すっきりとしたやや面長の輪郭とその長めの首、骨の形のあきらかな白い艶 めかしい鎖骨。――その痩せた長身は一見にして手脚が長すぎると思われるほど長く、彼がその細長い手脚をうごかして街を歩いているだけで、誰もが彼のそのスタイルの良さとその美貌におどろいて振り返った。
また彼の美貌において何より特筆すべきはその瞳である。
野暮ったくないすっきりとした切れ長の両まぶたの際 に生え揃った黒いまつげは長い。まつげという額 によく映えてみえる硝子 のように澄明な彼の瞳は、薄紫色かと思えば、光と影の加減によって青にも紫にも桃色にもとさまざまな色に変わる、まるで多色性の美しい神秘的な貴石のようだった。
そうして人工物より色っぽいぶんもっと完璧な、涼やかな彼の美貌は、ともすれば人に近寄りがたいと思わせるほどの高嶺の花というにふさわしい容貌である。
ところがその美貌の中には、何か愛らしさを感じられる部分もあった。彼の形のよい唇はぽってりと厚く赤い。薄桃色の下まぶたはふっくらと膨れていて、彼が笑うとより愛らしく盛り上がる。その痩身 はよくよく見ると、その引き上がったお尻にだけは豊富な蠱惑 的な肉付きがあった。
月下 ・夜伽 ・曇華 はその美貌で、これまでにも数えきれないほど多くの人を虜にしてきた。
しかし彼が魅惑的であるのは、その美貌ばかりのことではなかった。むしろ俺をふくめ多くの人を虜にしてきたのは、その美貌をより引き立てるような、彼が生来もって生まれた色香によるところのほうが大きいといえるだろう。
彼はその美貌に時折ミステリアスな儚げな色香を漂わせた。まるで程よく香る甘い香水のように魅力的なその色気は、しかし満開の月下美人がはなつ妖艶で濃い甘やかな芳香のように蠱惑的だった。
ちなみに彼は俺よりも三歳年上である。それだから俺は彼のことを「ユンファさん」と親しみと敬愛を込めて呼んだ。――俺はユンファさんを初めて見たとき、彼をひと目見ただけで如何 ともし難 いほど心に固い錠をかけられたように掴まれた。
なお、俺たちの出逢いはいわゆる「出会い系サイト」であった。俺はどだいゲイであるので、なかなか自然な出逢いから交際に発展することが難しい。
そうして俺はゲイ専門出会い系サイトの夜空を眺めていたとき、たまたま夜空の星々の中で月のようにひときわ強く輝くユンファさんのプロフィールに行き着いた。彼は「月 」の名前で登録していた。
彼はプロフィール写真に目元を黒い前髪で隠した美しい白皙 の横顔を載せていたが、ほかにも膨らみの妖しい黒いボクサーパンツのみを身に着けた白い裸体の自撮りを載せていた。そして彼は堂々と「オメガ。バリウケ。ヤリモク。」とプロフィールに書いており、明らかに肉体関係以上の出逢いを求めているようではなかった。
正直に白状をするなら、俺もはじめはユンファさんと一夜の肉体関係を望んで彼に接触をした。
俺はもとより実直な彼氏を求めながら、並行して男の肉体もまた求めていた。特定の彼氏ができたなら遊びはやめればよい。多淫奔放に思われるかもしれないが、ゲイには比較的よくあることだった。
ましてや、あれほどわ か り や す い 彼のプロフィールコメントを読んでおいて、まさかはじめから彼との真剣交際を望むはずもなかった。――俺は端からそ の つ も り でユンファさんに「いいね」を押した。すぐにマッチングした。
それから俺たちは何往復かメッセージのやり取りをした。その内容は事務的というほどではないにしろ淡々としたもので、主に肉体的なマッチングを確かめ合うようなやり取りであった。
すり合わせ的なマッチングが済むと、俺たちは早速実際に会うこととなった。
当然目的が目的である以上、夜、ラブホテルの近い駅前で待ち合わせをした。このとき俺は初めて会う相手ということで少し緊張はしていたが、さほど彼に期待はしていなかった。出会い系サイトを経由する出逢いには往々にして写真と実物との間に夢と現 ほどの落差があるものである。
サイト上ではひと際美しく優雅であった月でも、ともすれば現実には鼈 であるかもしれなかった。こうした出会いにはよくあることである。期待をすればするだけ現に引き戻された際の落胆もまた色濃くなる。それくらいなら端から期待などしないに越したことはない。
もちろん望むらくは美貌の男であるにしても、所詮は一晩かぎりの相手である。やがて俺の元へやってくる男が月であろうと鼈であろうと、よっぽど生理的に受け付けない醜男 でもない限り、俺はその辺りいつも通りさして気にしてはいなかった。
待ち合わせ時間の五分前、駅前のシンボルとなっている時計台の前で待っていた俺の元へ、ユンファさんは悠々 歩いてきた。彼は夜の街ではなお黒と見間違えるほど濃い紺色のチェスターコートを着ていた。
その白皙の美貌がチェスターコートの襟元の紺色によく映えてより白く見えた。――俺は内心驚いていた。
どうせ今回も雰囲気ばかりの美男子だろうと、端から期待しないように努めていた俺にとって――まさかこれほど完璧な色白の美男子がやってくるとは思わず、なんなら彼に声をかけられるまでは「まさかな」と彼が「ユエ」であることを疑っていた。
ところがその美しい青年は俺の顔をその透き通る薄紫色の瞳で眺めながら、まっすぐ俺の元へ向かってくる。やがてその美男子は不安そうな顔をして俺に「こんばんは、ショウさんですか?(俺は出会い系サイトで「松 」と名乗っていた)」と遠慮がちに尋ねてきた。――そうしてこの完璧な美貌の青年こそ、俺が今夜を共にする約束をした「ユエ」であった。
にわかに俺の鼓動が速くなる。
想像以上であった。なんなら俺はこれほどまでに美しい男には出会い系サイトといわず初めて出逢った。
「はい、ショウです。ユエさんですよね」と俺がなんとか答えると、彼は安堵したように「はい」と微笑した。そしてユエというその美男子――ユンファさんは俺を見ながら、その美しい微笑を傾けた。
「はは…思っていたより格好良いですね、ショウさん」
「……、…――。」
俺はまさかの、人生初の一目惚れを経験した。
まるで俺のこの一目惚れは、ユンファさんが俺の心に彼が持つ鍵でしか開けられぬ錠をかけたかのようであった。鼈なんてとんでもなかった。彼は正真正銘蒼い美しい月であった。俺は彼をひと目見ただけで、あぁ俺はこの人と結婚をするのだと直感した。
……そのように俺の脳内にはユンファさんと会ってすぐ「真剣交際」の望みがチラついたが、しかし一 晩 の つ も り で俺と待ち合わせた彼に申し訳なく思い、俺はその夜、当初の目的どおり彼とラブホテルに宿泊した。――
ホテルの部屋でお互いに各々シャワーを浴びたあと、俺は早速ユンファさんにベッドへ導かれた。彼は俺にキスをしてきた。それは彼が先攻を取るという合図だった。――ユンファさんはまず俺をベッドに座らせて、キスをしながら俺のバスローブの股間をまさぐると、「まずは僕が舐めますね」と俺の足下に膝を着いた。
「…ショウさん、僕が出会った中で一番大きいかも。顔も格好良いし、体も凄いし…こういう待ち合わせ、ショウさんもよくするんですか」
とユンファさんは俺の勃起を巧 みに扱いたり舐めたりする合間に笑顔を浮かべ、そう尋ねながら俺を見上げた。
「いや、よくはしないです。たまにですかね」
俺はこの美男子に惚れてしまった手前、彼に誠実に見られたいあまりにちょっとした嘘をついた。
「そうなんですね。僕は結構色んな人と待ち合わせするんですけど、仕事もウリ専だし」
どうりで彼は上手かった。
一頻 りユンファさんからの愛撫を受けたあとは俺の番となり、俺はやりやすいからという理由で彼をベッドの上に寝かせた。――「キスしてもいい…?」
……俺は普段なら遊び相手の唇になんの迷いもなくキスをしたが、相手が今しがた惚れたばかりのユンファさんであるからか、ついそう純情な質問をしてしまった。彼は面白そうに笑った。
「もちろん。いつもそんなこと聞くんですか?」
「…まあね、たまにキスは嫌だという人もいるから」
嘘であった。
するとユンファさんは呆れたように笑う。
「えぇ、そんな人いるんだ。じゃあ何で待ち合わせなんかしてるんでしょうね? 気にするならやめればいいのにな」
「…はは…そうだね…、……」
俺は緊張しながらもユンファさんの美しい赤い唇に口をつけた。彼のふっくらとした唇の形がほとんど変わらない圧力であった。彼は俺の唇が離れると「可愛い、ショウさん」と微笑んだ。
そして俺はユンファさんの着ているバスローブをくつろげてみて驚いた。ユンファさんはその肉体まで申し分なく美しかった。白いバスローブに負けず劣らずの白い肌、引き締まった痩せ型のしなやかな長駆、彼の乳首と性器は可憐な薄桃色と、彼がプロフィールに載せていた写真に偽りは一つもなかった。
しかも、俺をよろこばせていたときはにこやかながら恬淡な様子であった彼が、ベッドの上で俺に組み敷かれ、俺に陰茎を扱かれながらその薄桃色の乳首を吸われていたとき、不意に「…ん…♡」と初めてわずかな嬌声をもらした。――俺はユンファさんのその秘めやかな可憐な声を聞いたとき、興奮と愛おしさのあまりどうにかなりそうだった。
「…ぁ…♡ …凄い…本当にこういうことあまりしないんですか…? 凄く上手なのに……」
俺はユンファさんにそう褒められたとき、正直そのときは単なるリップサービスだろうと軽く受け止めて「ありがとう」とだけ平常心で応じた。
ところが――もとは一晩という約束だったはずが、結局は一度や二度では済まなくなり、お互いに留まるところを知らない求め合いに発展した俺たちは、翌日の朝に至るまで二人ベッドの只中 にいた。
俺の恋心において幸いなことに、ユンファさんは俺の肉体をいたく気に入ってくれた。「また会えませんか?」と彼のほうから提案され、俺たちは個人的な連絡先を交換しあい、その日は別れた。
その後も俺たちは何度も何度も会った。
俺は頭のどこかでユンファさんと会うことを「逢瀬 」だと思っている節があったが、当然彼のほうは毎回俺の肉体を求めてきた。俺はその誘いを断れば彼がもう俺とは会ってくれないように思い、その肉感的な夜に応じつづけた。
しかし俺はそうしてユンファさんと会うたび、やがて彼とは親しげな軽口を交わし合えるほどの仲となってもなお、あの一目惚れの直感による情熱を強めていった。
もともと俺はいつまでもダラダラと燻 るようなタイプの男ではない。その直感がやがて確信の火種となった頃、それが火種では終わらずどんどんと燃えさかるに委 せて、俺はユンファさんに猛アタックするようになっていった。
しかし彼は俺の情熱をぶつけられてもなお、のらりくらりとその炎を煙のようにかわした。艶めかしくくゆりながら立ちのぼる美しい夢のような煙に炎がいくら必死に手を伸ばしたところで届かないものである。――恋人などという限定された関係性は面倒だ、セックスならいつでもしてあげる、彼はそう言っていつも俺にキスをしてきた。
すると俺はいつも彼のその肉体の魔力に負けてしまったが、それで俺の彼への愛の火力が弱まるなどということはなく、むしろより強火となっていった。
結果余計に彼との真剣交際をつよく望むようになっていった俺は、すげなくフラれても懲りることなく十何度もユンファさんに愛の告白をしつづけた。
「俺の恋人になってください」
「…はは…またそれかよ。…じゃあ君は、僕とセックス無しでも会えるの?」
ユンファさんは自分の肉体が湛えている魅惑性を憎たらしいほど自覚していた。そしてどうせ無理だろうと、こう言えば十中八九俺が引くものと確信していた。
……ところが俺は「もちろん」と言って、実際に彼と昼間のデートばかりをして、それきり二人で夜の繁華街を歩かなかった。――彼は面白半分ではありながらも俺が誘った白昼堂々のデートに付き合ってくれた。しかし「俺と付き合ってください」と俺にデートのたび毎回愛の告白をされる彼は、「別に僕の彼氏にならなくとも、僕とはキスもセックスも何でもできるのに」と呆れたように笑った。
それこそ俺はそうして報われない数えきれない愛の告白をユンファさんにしてきた。
これはもはやその俺の愛の告白が何の刺激をも生まない習慣とさえなり始めていた、ある日のことである。その日は二人で水族館に行った。
ユンファさんは夕暮れの穏やかな海を一望できるフェンスに両腕を置き、目前の橙色 の海を眺めてこう言った。
「ねえソンジュ、何故君はそう僕にこだわるんだ。それこそ他にもっとまともな人はいくらでもいるじゃないか…――付き合って付き合ってって、…はぁ…君の目的は一体何なんだかな。」
「…貴方の愛」
「何、愛? 愛だって? はははっ…」
俺を馬鹿にして隣の俺へ振り向いた彼の顔は愉快げな笑顔であった。しかし、俺の真剣な真顔を見たなり彼のその愉快そうな笑顔は凪 いで、彼はまた海のほうへと顔を向ける。
「まあ君は若いからな…だからまだそういう無 い も の ね だ り が素直に出来るんだよ。…可愛いね……」
「…………」
ユンファさんの微笑したその横顔は儚かった。
彼の白い肌と透き通る瞳を照らした夕暮れのやわらかい光が、彼のまとう儚さをより色濃く見せる。
……俺はたまらずユンファさんのことを抱き締めていた。俺は彼のこのミステリアスな儚げな雰囲気に弱かった。
その美貌は愛らしくも鋭く強 かそうである。彼の性格のほうもさっぱりしていて、こと肉体関係にはドライすぎるほどの見解をもち、やはりそちらのほうも強かである。――だのにふとした瞬間に、ユンファさんはこうした憂いた壊れてしまいそうな色香を漂わせた。
すると俺は切なくて堪らなくなった。彼が愛おしくて堪らなくなった。彼の側にいたいと思ってこらえ切れなかった。
「なあ、もう諦めたら…?」
とユンファさんは俺の腕の中で呆れている。彼は俺を抱きしめ返すようなことはしない。
「貴方が俺と付き合ってくれるまで諦めない」
「…じゃあ会うのやめよう。僕はヤリモク男なんだから、正直そういうの迷惑なんだよ」
「じゃあ俺はどんな手段を使ってでも貴方に会いに行くよ」
「…はは、それじゃあ君、ただのストーカーじゃないか。」
ユンファさんは俺の腕からするりと自然に抜けでていった。彼は俺の顔を見て困ったように微笑すると、俺にくるりと背を向けて一人でに歩きだす。
俺は慌てて彼の手をつかみ、引き留めた。彼は背後の俺に振り返らない。
「俺は絶対にユンファさんのことを諦めない。諦められないし、諦めるつもりも毛頭ない。悪いけれど、これで本当に貴方と会えなくなってしまったら、それこそ俺は……俺はきっと手段を選ばない、いや選べなくなってしまうと思います。それこそ本当に、俺は貴方のストーカーになってしまうかもしれない。…わかるじゃないですか…――これほどしつこい男が俺なのだから」
「……、…」
ユンファさんは後ろの俺に手を取られても、俺に振り返らないままうつむいていたが、
「……、ふふ、――はは、…あはははは…!」
やがてこらえ切れなかったというように大声で笑うと、ふっと笑顔で俺に振りかえった。その爆発的な笑いのせいか、彼は顔を真っ赤にして、その切れ長の目に涙まで浮かべていた。横から彼の顔の側面を照らす夕陽が、その人のツリ目のまなじりに浮かんでいる涙を光らせる。
「いいよ。じゃあ付き合ってあげる。」
「……え」
「…だって、ストーカーになんかなられたらたまったもんじゃないだろ。仕方がないから…ソンジュと付き合ってやるよ」
――そうして…十何回目かの俺の愛の告白にいよいよ折れた彼は、しかし俺と交際をする前に知っておいてほしいことがあると言った。
ユンファさんは、自分はセックス依存症なんだと俺に打ち明けてきたのである。
恋人を欲しいと思ったこともなかったが、だからこれまで自分は特定の誰かの恋人にはならなかった。本当に君がそれでもいいなら……――そして彼は俺との交際前、俺にある「約束」を持ちかけてきた。
あるいは交際の条件ともいえるその「約束」とはこうである。――まず俺たちが恋人関係となっても、ユンファさんが俺以外の男とキスやハグなどのスキンシップを取ることはもとより、誰とでもセックスをする自由を認めること。ユンファさんと他の男のセックスを邪魔しないこと。その件で俺は彼にも相手の男にも文句を言わないこと。
もちろん俺はユンファさんと付き合えるならと、彼が提示してきたその「約束」を呑んだ。むしろ俺はそれくらい何だ、大した問題ではないといって、喜んで彼との交際を開始したのだった。
そして、俺がユンファさんと結婚をしたのはつい一年前のことである。
――今日は初めての結婚記念日だった。
俺はマンションの玄関口の鍵を開けて中に入ろうとした。ところが鍵ははじめから開いていたらしい。
むしろ俺が鍵を差し込んで回したなり、逆に鍵が施錠されてしまった。――俺は朝出かけるとき、まだ眠っていたユンファさんのことを思って鍵をかけて出たのだった。
俺は再びガチャリと鍵を開けなおし、玄関扉を開けて我が家へと帰宅した。パッとにわかに人感センサーの玄関灯がつく。
俺は玄関のタタキ上で一日履いていた革靴を脱ぎ、仕事に着ていった紺色のスーツのまま、目の前につづくまっすぐとしたフローリングの廊下を歩いた。そう広い家ではない。すぐにたどり着いたリビングルームへの扉を開ける。
リビングは真っ暗であった。
夜八時を回っている今、部屋の電気がついていなかったのだ。ところが俺はこれを不審には思わない。
あるいはユンファさんがサプライズを仕掛けようとしているのではないか。……しかし、そうした俺の淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。
俺は扉のすぐ隣の壁に設置されたスイッチを押した。天井にある室内灯がパッとつく。明るくなったリビングルームにユンファさんの姿はない。
このリビングルームは至ってシンプルな、リビングといってたやすく誰もに想像されるような、いうなれば無個性的なリビングであった。
まだ出入り口の扉の位置から動かない俺からみて向かって右手側、木製の明るい茶色のダイニングテーブルと、向かい合わせになった二脚の椅子がある。このテーブルと椅子はセットで売られていたものだ。
しかしそのテーブルの上に結婚記念日の祝いのケーキが置かれている、彼からのプレゼントが置かれているというようなことはなく、その艶のあるテーブルの上にはむなしい室内灯の白い光がぼんやりと浮かんでいるだけだった。
またむかって左手側の空間には、液晶テレビの乗ったテレビ台の前に細長い長方形のローテーブルと、黄緑色の四人がけのソファが置かれている。こちらにも何があるということはない。また扉の位置から見て対面にあるベランダへとつづくガラス戸の前、縦長の黄緑色のカーテンは閉め切られており、まっすぐに刻まれたゆるい襞 を床すれすれまで伸ばしている。
俺はこの特別に飾りつけがされているわけでもない、今朝と同じように飾りっ気のないリビングルームを一応観察してはみたが、しかし俺には今ユンファさんがどこにいるのか、粗方の目星はついていた。
俺はリビングの右手側へと歩んだ。
――まず俺は道すがらのダイニングテーブルの上へ、紙袋から抜き取った薔薇の花束を置いた。
しかし花束とはいえ、この黄色い薔薇の本数はたったの二本である。
これはあかるい黄色の花びらがよく映えるチョコレートブラウンの包装紙でラッピングされている。またその包装紙のくびれた根本には、メインとなる太い水色のサテンのリボンがぽってりとした蝶結びになって巻かれている。さらにその水色のやわらかい艶のある蝶結びの下から、細い薄紫色のサテンのリボンがクルクルと数本カールして踊るように生えている。
「…………」
俺はついぼんやりとその黄色い薔薇を眺める。
ローテーブルの上、鮮やかすぎるほどのその黄色い薔薇の花を眺めている俺は、やがてその美しく咲き誇る二輪になぜかしら同情してきた。
植物における花の部分は、生殖器官――いわば性器である。
もちろん花も種 によってその構造はさまざまであるが、多くの花は雄 しべの「がく」という先端から花粉を出している。
そして雌 しべは、柱頭 と呼ばれる先端から多くは粘液を出して花粉をまちうけている。受粉を待ち受けているのだ。――また受粉をした雌しべは、やがて柱頭から下にある花柱 という柱を開かせ、その柱を花粉管 とすると、受粉した花粉を下の子房 へと送り込む。
そして花の内側に取り込まれた花粉は、子房の中の胚珠 と受精して結合し、そうして花は種を残す――。
おそらくこの薔薇の幾重にもなった黄色い花びらの中にも、探せば雌しべと雄しべがあることだろう。
ところがこの二輪の黄色い薔薇は、人間の身勝手で、そのように種を残そうという本来もちうる本能の生殖などやり遂げられぬまま、見た目が美しいからというだけでつかの間人間に飼い殺しにされる。
性器を誰しもの目に晒し、あたかも生殖をするためのその花、あまつさえその生殖器官を「美しい」と視姦され、もてあそばれ、人間のことを楽しませるだけ楽しませたあとは、そこまでしても結局は生殖を遂げられぬまま捨てられ、やがて枯れて死んでゆくだけ――いや、この薔薇は俺の夫への贈り物である。間違ってもこうした辛気臭い同情をかけるべきではない。
この二本の黄色い薔薇の花束は言うまでもなく、結婚記念日の今日という日に俺から夫のユンファさんへ贈ろうというプレゼントの一つであった。しかし俺から彼へのプレゼントはこれだけではない。
俺は薔薇が入っていた大きな紙袋を床に置いた。こちらもユンファさんへ俺からのプレゼントである。
さて、テーブルからいくらか距離をあけたすぐそこの壁には、寝室へとつづく焦げ茶いろの扉がある。
俺は今日という日に「まさか」とは思いながらも、なかばはこうなることを予測していたために落ち着きを持ってその扉のドアノブをひねり、そっと開けた。
……電気の消された真っ暗な寝室の中、俺の背後から差し込むリビングの室内灯の一条の明かりが、こんもりと膨らんでいるベッドの上の白い掛け布団を照らした。
「…あっ…♡ ……ぁ…っ♡ ぁっ♡ あっ♡ あっ♡ あっ…♡ あぁっそこ、そこすき…♡ きもちぃ…♡ きもちいぃ…♡ あぁもっと、もっと奥突いて…♡ もっと…♡ あ…っ♡ …あぁイく……っ♡」
もそもそとその白い山がうごめいている。ギコギコとベッドのスプリングが呻 くのに合わせてあがっているこの喘ぎ声は、間違いなく俺の夫のユンファさんのものだった。
「ほら目ぇ開けろよユンファ、お前は今誰に犯されてんの?」
「んっ…♡ んんぅ…♡ やぁ…恥ずかしいよ…」
「…………」
そうして俺の「まさか」という悪い予感は当たってしまった。
ユンファさんはまた俺と彼の愛の巣に男を連れ込んでいた。こういったことはもはや俺が今平静でいられるほどに日常茶飯事である。――というよりか、俺とユンファさんが交際前に取り交わしたあの「約束」は、結婚という折に破棄されることはなかった。
むしろ交際前の「約束」に付け加えて、他の男とセックスがしたいので子供は作らないということ、同様の理由でアルファ属とオメガ属であっても俺たちは「つがい」にはならないこと、ユンファさんの好きな時間に自宅へ男を招いても文句は言わないこと、などの約束が追加された。
「ほら、旦那の前で俺のちんぽが世界一気持ちいいって言えよ、…」
「…っあん…♡ ぁ、♡ …あっあぁ…♡ ぁ、君のおちんちん、…っ世界一きもちいい…!♡」
「はは、旦那帰ってきた途端にまんこぎゅうぎゅう締めやがって、…旦那にセックス見られて興奮してんの? この変態。」
「…んっ…♡ …ぅ…♡ うん、興奮してる…♡ ……ッァ♡ あ、♡ あ、♡ あ、♡ あ、♡」
「…………」
仮にも夫に事の現場を見られようと、その白い掛け布団の動きは止まらない。俺に情事を見られるということは、それこそユンファさんはもちろん、男たちにしてもそう珍しいことではなかったからだ。
それどころか俺の存在をさえあさましい興奮の材料とし、ギコギコとベッドスプリングの悲痛げにうめく声が哀れなほど酷くなる。
まさか二人の初めての結婚記念日にまで他の男を求めるとは――俺はさすがに憤りを覚えた。
俺は扉をそっと閉める。とりあえず頭を冷やすため、一旦はシャワーでも浴びて来ようか。俺は踵 を返し、浴室へと向かった。――
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