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さて、俺はその日もユンファさんの部屋に招かれて行った。――秋の日のまだ昼ごろだった。
なお普段は夜に会うことの多かった俺たちだが、例外的にユンファさんの仕事が休みである日にはそうして昼か、早ければ朝に会ってほとんど一日中二人でベッドの中にいるようなこともあった。
それこそひとたびベッドの上で俺と彼とが結ばれてしまうと、解 きやすいように紐を蝶結びにするような賢さをもお互いに忘れて、熱意のあまり固く結んでしまった二本の紐のようになかなか解けない、更にベッドの上で足掻 くように動けば動くほどお互いに解きようもないくらい絡まりあい、むしろどちらかが解こうとすればなお複雑に、俺たちという二本の紐は抗いきれずに離れがたいと絡まりあった。
ベッドの中の俺たちにはお互いへの倦厭 が存在しなかったのである。
……いや、こと俺のほうはその程度が重症だった。
俺は頻繁にユンファさんを抱くようになってからというもの、何かにつけて彼の生白い艶姿 を思いだしては、情欲の幻臭 が自分の生活まわりに漂うのをかんじていた。
俺の目に滲 みるその幻臭はこの両目を熱くうるませ、俺の鼻の奥に香るその熟れた桃の匂いはこの鼻腔を刺激して、俺はいつもゴクリと鳴ったおのれの喉の音にハッと我に返った。もはや病気だった。
たとえば、海外旅行の土産にと友人にもらった海外のチョコレートの匂いを嗅いだだけで、事後のあの美しいほのかな紅 さと艶気 を思いだし、吸っているタバコの立ちのぼる煙をふと見ただけで、俺の上にまたがり乱れていたその人の巧みな婀娜 っぽい腰遣いを思いだし――。
友人と飲んでいるときに頼んだ、おでんのちくわぶなんてものを見ただけで彼のほの白い雄 しべを連想し、スーパーで赤いチェリーを見ればその人の肉厚な唇を思いだし、今度は熟れた桃の匂いを嗅いだだけでその人の汗の匂いを思いだし、もはや帰り道に月を見上げただけでその人の肌の白さを思いだし、思わず買ったその桃を口にすれば、その人の肌の味を、みずみずしさを、あの美しい桃色の華とあふれるその花蜜を思いだした。
驚くほどに俺の世界は色あせた。
いや――ユンファさんにまつわるものにしか色がついていなかった。…俺はもうあの蒼然 とした月下美人をしか愛せなかった。
……決して他に俺の肉体が応答しないわけでもなかったが、はじめこそ空腹の勢いがあろうとも、彼以外はすぐに食べ飽きてしまったのである。
俺はもとよりユンファさんと頻繁に会おうと決めてはいたが、それはなかば否応なしなところもあった。
さて、また会おうとなったその前夜の午前二時ごろ、また彼から『明日休み』とだけメッセージが来た。要するに「明日会おう」ということである。三日ぶりだった。
――なお俺はユンファさんと結婚をしてから規則正しい生活をするようになったが、このころの俺は深夜二時や三時まで起きていることもわりと普通だった。ユンファさんと会えばそのたび翌朝まで起きているということもよくあったのと、夜のほうが何か執筆が捗 ると思いこんでいたためである。
そしていつものことだが、ユンファさんからのそのメッセージに俺が行くべき時間指定はなかった。『昼頃でいいですか』とすぐに返すと、彼からは『何時でも』とだけ返ってきた。
俺には別段翌朝の時間帯に何か予定があったわけでもなかったが(日ごろ夜遅くまで起きていたわりに、俺は彼と会えるとなると朝起きるのもそう苦痛ではなかった)、少なくとも俺に連絡をしてきたその二時ごろまで仕事をしていたか、あるいは仕事の合間にそのメッセージを送ってきたのだろうユンファさんを慮 り、朝はゆっくりと眠ってほしいとの考えで、はじめから「昼頃」と提案していた。――彼はその三日前に「今日から三連勤、しかも同じおっさんの貸し切り」とぼやいていたのである。
……ちなみにウリ専のその「貸し切り」というのはコースにもよるが、「三日間同じおっさん」と言っていたあたり、おそらくは24時間×三日ということだったのであろう。
もしかするとユンファさんは随分疲れているかもしれないな、今度ばかりはあまり長居はしないように気をつけなければ――そう思いつつ、俺はその日の昼ごろにもまた、いつも通りユンファさんの自宅に行った。
なお、結局俺はあのまま合鍵を家に持ち帰った。
ユンファさんに強 いてそれを突き返すのも何か違うかと思ったのである。むしろ愛する美男子の部屋の鍵を手に入れられたことは、良くいえば俺にとっての幸運には違いなかった。
そして俺はその日、昼食はユンファさんの家に着いてから彼と好きなものを選んでデリバリーでも頼めばよいかと思い、疲れているだろうユンファさんに、彼が好きなチョコレート――チョコレート色に金でカカオの実が描かれているコンパクトな紙袋に入った、高級チョコレート店の箱入りトリュフチョコレート――を手みやげに、彼の自宅の玄関前に立った。
……なおその紙袋はもちろん、俺の着ているベージュのトレンチコートはしっとりと濡れていた。秋の長雨の季節だった。外は霧 のような雨が降っていたので、傘をさしていてもその湿気に近い雨が俺の全身ににまとわりついていた。
「……、…」
そこで俺ははたと気が付いた。
気のせいか……ユンファさんの体臭、あの桃の果実の香りが、まだ開けてもいないその藍鼠 色の鉄の玄関扉から匂っているような気がした。アルファ属の俺の嗅覚は狼並みに鋭敏なのである。
……しかしこのときの俺は自分の嗅覚を信じることをしなかった。まあ気のせいだろうとまずは念のため、扉の隣にあるインターフォンを押して鳴らす。俺はいつも念のためインターフォンを鳴らすのだった。
ピンポーーン……と何の変哲もないそれの音が、甲高い余韻をのこしながら扉向こうからややこもって聞こえてくる。
「…………」
とはいえ、ここで待てど暮らせどユンファさんがそれで出てくることはないので――俺が合鍵を渡されたとき彼に言われた「いちいち玄関まで迎えに行くのは面倒」というのに嘘はなかったのである――、俺はそう間を開けず、合鍵を使って彼の家に入ろうとした。
水平の横一線型(レバーハンドル型)のドアノブ下の錠にそれを挿 し込み、右回りに回す。
「……、…――はぁ……」
……俺は眉を顰 めながら目をつむり、呆れたため息をつきながら――鍵を抜き、ベージュのトレンチコートのポケットにそれを入れなおした。
ユンファさんはどこまで不用心なのか……また鍵をかけていない。――開けようと挿 した鍵を解錠の方向右回りに回したところ、そもそも施錠されていなかった錠では当然「ガチャリ」という確かな手ごたえはなく、むしろスカッと軽い感覚が俺の手に伝わってきたのだった。
よくあることだった。二回に一回はそうである。
……ユンファさんは「鍵をかける」ということの重要性を知らない人だった。あるいはその重要性、自分にはその自己防衛が必要ない、関係ないと思い込んでいるような人だった。――俺が何度「鍵をかけないと危ない」と彼に忠告しても、彼は「はいはい」といったように、まるで取りあってはくれなかったのである。
……ともかく俺はその玄関扉のドアノブをつかみ、そのバーを押し下げながら扉をあけて彼の家に入ろうとした――が、
「――ぅ…っ!」
俺はすぐさまバタンと扉を閉めなおし、とっさに片手で鼻ごと口元をおおった。
扉を数センチ開けたその隙間から――ユンファさんのフェロモンが強く香ってきた。
そもそもの彼の体臭の完熟桃のような少し渋みのある濃厚な甘い匂いに、こっくりとしたバターのようなミルキーな匂いが混じっている。いわば桃のタルトのような甘い良い匂いだったが、そのミルキーな匂いこそが催淫 効果のあるフェロモンの匂いである。
それも――確かに俺のアルファ属の嗅覚は他属性のそれより並外れてよいにしても、あわてて扉を閉めなおしたばかりか鼻をおおうまでに、彼のそのフェロモンの匂いが強烈に濃かった。
言うまでもないことだが――このときのユンファさんは、オメガ排卵期を迎えていた。
そもそも彼は、ウリ専の仕事もそう鋭意 勤めているというわけでもなかったが――彼はその美貌を遺憾なく発揮して、なかば男らに囲われながら暮らしているところもあったためである――、どうりで「明日休み」と言っていたわけである。…風俗店はオメガ排卵期中のオメガ属にはその一週間休暇を与える。
ただ、何かおかしかった。
――ユンファさんはこのとき、なぜか抑制薬を飲んでいなかったのである。
俺はオメガ排卵期中のユンファさんとも会うことはあった。――とはいえ、彼は毎回きちんと広範囲に放たれるフェロモンを抑え、著 しく高まってしまう性欲を抑え、発熱や子宮・膣の否応なしの収縮活動を抑え、愛液の分泌を抑え、判断能力の低下や過剰な楽天思考となってしまうことを抑える、その「抑制薬」を飲んでから俺に会っていた。
……するとその期間中とはいえ、ユンファさんは普段とほとんど何も変わらないような状態であった。
ただその期間中の彼は、いつもよりほんの少しだけ体臭の桃の香りが濃かったが、しかしそれというのは、アルファ属の俺の嗅覚が良いからこそそう感じ取れたというだけのことである。
「……、…はぁ、……」
不用心もここまでかと、それにしても俺は呆れ返った。――何か今日はおかしい、いつもかかさず抑制薬を飲んでいるユンファさんがなぜか今回はそれを飲んでいない――その異変に気が付いてはいながらも、俺は呆れてしまった。
オメガ排卵期を迎えているオメガ男が、家の鍵もかけないで一人――いくらユンファさんが、他の小柄なオメガ男よりか体格に恵まれている男であったにしても、抑制薬を飲んでいない彼では何かあったときに抗いきれない可能性のほうが高い。
そう…それも抑制薬さえ飲まずして、更にその期間中にアルファ男の俺を呼びつけるとは、いくら俺が狼化していないとはいえ――オメガ属とアルファ属が「つがい化」するためにはまず、オメガ属がオメガ排卵期を迎えており、かつアルファ属が狼化していないと事が成立しない。つまり我にもあらず、俺がユンファさんのことを自分のつがいにしてしまう可能性こそなかったが――、それでもベータ属より、アルファ属のほうがオメガ属のフェロモンの影響を受けやすい以上、ユンファさんのこれはあまりにも軽率な行為だった。
俺は帰ろうと思った。
……とはいえ俺は常日ごろから、念のため、自分のアルファ属の衝動を抑える頓服薬 を持ち歩いていた。
アルファ属は他属よりも動物的な攻撃的な本能――意欲的に狩りをする飢えた狼のような狩猟本能、おのれのテリトリーや身を守るために牙を剥く狼のような防衛本能、本能のままにつがいと交尾をする狼のような生殖本能――がつよく、狼化期間前後とその最中にはこと理性よりその本能が勝ってしまうこともしばしばあるのだが、当然その「動物的な本能」というものは、理性と倫理でまわっている人間社会において問題となることのほうが多い。
――また狼化というものも一種の月経である。
不意なそれの訪れやその前後期間の心身の不安定は、ともすれば誰かに何かしらの危害を加えかねない。
これは俺のみならずほとんどのアルファ属がそうしていることではあるが、そのために俺は、アルファ属の本能の衝動を安定させてコントロールするピルを日ごろから服用し、さらには急な事態にそなえて頓服薬を持ち歩いてもいた。――するとオメガ属のフェロモンをまともに嗅いでしまったとしても、それさえ飲めば本能的な部分はある程度削 がれて、平静とまではいえないにしろ理性的な判断は可能ともなろう。
また、そもそもオメガ排卵期をむかえているオメガ属のフェロモン自体も、たとえ抑制されていない強烈なそれを嗅いでしまったとしても、それを嗅いだ者の理性のブレーキが完全に効かなくなってしまうほど興奮することはないとされている。
――しかし、俺はだとしても帰るべきだと思ったのである。
……その期間中特有の症状が顕然 としているユンファさんとは遊ぶわけにもいかない。あきらかに遊んでいい状態でもなければ、抑制薬を飲んでいないならばなお遊んでいる場合でもない。
ましてや、いくら俺の手元に頓服薬があれども、またそのオメガ属のフェロモンには、人を錯乱させるまでの効果はないにせよ――だとしてもフェロモンに影響の受けやすいアルファ属の俺が、ユンファさんに愛念を抱いている俺が、愛する美男子、喉から手が出るほどに欲しいと思っているユンファさんと、俺の理性を濁 らせるとわかっているその状態のユンファさんと対面して、俺が日ごろ努めて固くしているたかが緩まないとも限らない。
――オメガ排卵期中の彼を愛すれば、彼の濡れそぼつ華を確実に俺の花粉で受精させることができる。
今ならばその花柱 はあまりにも開かれて、もはや何もせずとも花粉管 となっていることだろう。――俺の雄しべの花粉を受粉させれば、その花粉管は喜んで俺のことを迎え入れることだろう。――その華は喜んで俺の花粉をその口のひらかれた子房 で受けとめ、そしてその中で花粉を待ち受けている胚珠 は、否応なしに俺の花粉と受精することだろう。
その子房に俺の種 を根付かせれば、あの月下美人は俺のものとなる。
……俺の種を根付かせれば、その種を孕んだ実がふくらみ熟れるまで室内の日向 に閉じこめてしまえば、貴方は俺だけのものだ、俺だけのものだ、俺だけのものだと、日ごとふくらんでゆく愛しいその実を毎日毎日撫でながら、あの美しい月下美人に十月十日囁き続ければ……――それは俺の残酷な本能の囁きであった。決して実行してはならない悪魔の囁きだった。
……俺は帰るべきだと思った。
あとで『大変そうだったので今日は帰りますね。鍵をかけておかないと危ないですよ』とだけメッセージを入れておこう。
ただ俺は、手みやげにもってきたユンファさんの好きなチョコレートだけは置いていこうと思った。
秋のこの日は、つけ加えて秋の霧のようなよわい淫雨 が降りしきる少し寒いくらいの日であった。生菓子扱いのトリュフチョコレートとはいえ、この気温ならば問題ないだろう。――俺はそのドアノブに紙袋の取っ手を引っかけようと、それを見下ろした。
――そのときだった。
ガチャ、そのバー状のドアノブが縦になるように倒れた。
「……っ!」
……まるで空き巣が不意に聞こえたその家の主人の足音を恐れたかのように、俺はビクンッと大げさなまでに驚怖 した。俺はユンファさんと顔を合わせないまま帰ろうとしていた。
何かこれで彼に会うのはやましいような気まずいような、とにかく彼に気が付かれないうちにこっそりとこの場を去ろうと思っていたせいで、俺は予想外なことに酷く驚いてしまったのである。
しかし俺は忘れていたのだ。
――俺はいつも通りインターフォンを鳴らしていた。
瞬間ユンファさんのフェロモンが強く香った。俺がハッとした頃には、おそるおそる開いてゆくその扉の隙間から――。
「……はぁ、はぁ……」
「……、…ゆ、ユンファさん、…」
ユンファさんのうす赤い顔が覗き、彼の潤沢な紫色の瞳が俺を見ている。
当然だが――その扉を開けたのは、ユンファさんであった。
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