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               ユンファさんは泣きながら俺に「僕を一人にしないで」と言った。――彼のその哀願に熱意をかき立てられた俺は、真剣なあまりに力んだ両目でユンファさんの顔を見て、彼の火照った両頬を両手で固定して、それからほんのわずかだけ腰をおとして、そして彼のその涙に濡れている、少し赤らんだ切れ長の目を真正面から力強く見据えた。  俺は腹の底で固まった堅固な決意を自分の喉元までのぼらせ、低い誠実な声でこう言った。   「貴方を一人になんかしない。…俺は絶対にユンファさんを一人にはしないよ。――ずっと一緒に居る。俺はずっと貴方の側にいるから。」   「……、…」    ……しかしユンファさんは、(うつ)ろな紫色の瞳で俺の目をただぼんやりと眺めていた。  目が合っているという心地がしない目だった。たとえば特に欲しもしない宝石を無感情的に眺めているというような、彼のその目つきは俺という人の水色の瞳を見つめているというよりか、「あ、水色の目だ」と認識しているだけのような、ひどければ「人間の目だ」と認識しているだけのような目付きだった。    暗くも明るくもない、冷めても熱くもない、ユンファさんは俺の両目をじっと見つめていながらも、俺がぞっと戦慄(せんりつ)したほど心ここに在らず、というような紫色の瞳をしていた。――それは、先ほどまで可哀想になるほど切なく泣いていた人とは思えない、信じられないほど無感情的な目つきだった。     「…ユンファさん…?」    俺がユンファさんを今ここに取り戻そうと呼びかけると、はたと彼は目を伏せながら「違う…」と言った。   「……、…違う…? 違う、って…?」    俺のまごついた質問に、ユンファさんは目を伏せたままの憂い顔で、ぼそりとこう言った。   「…“一人にしないで”と言ったのは、ソンジュに対して言ったわけじゃない……」   「……じゃあ、誰に…」    俺は落胆していたが、しかし漠然とではあるものの、なかばはこれがユンファさんの強がりだとわかっていた。   「…元カレ…」   「……、…」    これは俺を拒むための、ユンファさんの強がった嘘だったかもわからない。――現に彼は「一人にしないで」と言うまえに、「お願いソンジュ」と俺の名を呼んでいた。    ユンファさんはこのときから恐れていた。  俺と結婚をしたのちの今もなお彼を縛り付けているあの「恐れ」は、俺たちが交際をする前のこのときにも、もう既にその土台が築かれていたのである。    しかし――このときの俺がそのことを知っているはずもなく、俺は「そっか…」と苦々しく笑い、「まあ、とりあえず家に入ろう」とユンファさんと彼の家のなかに入った。  もちろん先ほど俺が地面に落としてしまった彼への手みやげ、高級チョコレートの入った紙袋を拾って。――      ――そうして俺がユンファさんの家に上がり、まずは玄関の鍵をきっちりと締め、それから玄関のタタキで革靴を脱いでさっさと廊下をあるいて、あのリビング兼寝室へと入ると(なお廊下とその部屋のあいだに扉はない)――俺のあとを着いてきていたユンファさんが、そのリビングにはいってすぐ――じゃれついてくるように、俺の片腕に抱きついて寄り添ってきた。   「…へへ、ねえソンジュ…」   「……、はい…?」    ……俺は彼の部屋にあるのだろう抑制薬を探さねばと急いでいたが、しかし彼を振りはらう気にもなれずに立ち止まる。…あとにしてくれないか――まず優先すべきは間違いなくユンファさんに抑制薬を飲んでもらうことだったので、本当は俺はそう言いたいところではあった。  ……が、俺はとてもそうは言えなかった。実直にいって嬉しいという気持ちもあったし、何より今のこのような状態でもなければ、まず彼はこうして俺に甘えてはくれない……いや、彼はそうでもないと誰かに甘えられないのだと気が付いていた俺は、とても拒めなかったのである。   「…はぁ……きっと、こんな感じなんだろうな……」    とうっとりため息を吐いたあと、幸せそうな柔らかい声で言うユンファさんは、俺の肩に赤らんだ片頬を着けて目をつむり、何か嬉しそうにニコニコとしている。   「……? 何がです…?」    俺が尋ねるなり、ユンファさんは俺の顔を見上げて、無邪気な笑顔でこう言ってくる。   「…ソンジュが僕の彼氏だったら……へへ、僕と君がもし付き合っていたら、こんな感じかなって…――ね…僕たち、今日は何だか恋人同士みたいだね…」    ……その切れ長の両目を細めている笑顔はうす赤く、ことにその両頬はじゅわりと濃い桃色が滲んでいてなお愛らしい。   「……、…」    俺はしかし、彼のその笑顔を見下げる自分の顔に、思うところのある薄い笑いをにじませた。   「…そうかも、しれませんね…。…でも悪いが、俺は()()()では嫌なんだ。――ずっと言っているでしょう…、俺と本当に付き合ってほしいんです。俺の彼氏になって」   「……しょうがないな」    ユンファさんがそう微笑んだので、俺は瞳孔が開くほどにわかに期待をした。しかし、彼はふと目を伏せてこう言う。   「…じゃあ今日だけね」    ……俺はこの魔性の美男子にまた(もてあそ)ばれたのである。とはいえ、俺はいちいちこうしたことに一喜一憂していてはそのうち疲弊して、やがてユンファさんを追いかけるだけの精も根も尽き果てるということをわかっていた。これもある意味ではいつものことである。そう落胆はしなかった。――いや……それは嘘である。俺は落胆していた。   「……今日だけですか……じゃあ今日だけ俺の恋人になってくれるということ。…そして明日になったら、また俺たちはセフレに戻るということ?」   「…そう…」とユンファさんが目を上げ、俺の目を潤沢な薄紫色の瞳で見てにこっと笑う。   「…でも今日だけは、ソンジュの恋人でいてあげる。へへ…」   「……そうですか。それはありがとう…、……」    ……俺は彼のその気まぐれに翻弄されている自覚はあったが、まあ今日だけでもこの美男子を自分の恋人にできるというのは、明日を欲張らなければ何も悪いことではない。むしろ喜ぶべきことであったかもしれないが、やはり俺はやりきれない思いに多少意気消沈はしていた。…まあそういって俺を悪戯に翻弄してくれるところがまた、俺はなんとも(たま)らなかったのだが。     何にしても――俺は早いところ抑制薬を見つけなければならない。  ……ちなみに俺は廊下を歩いている最中に、自分のトレンチコートのポケットのなかに入れていたあの頓服薬を飲んでいた。それは水無しで飲める個包装のシロップ剤なのだ。なお即効性である。    俺は、俺の片腕に抱きついているユンファさんに「ちょっとごめんね」と声をかけ、その手をやさしくほどこうとした。…しかし彼は嫌がってなかば意地になったよう、俺の片腕にしがみついてくる。   「…俺は抑制薬を探さないと…」   「だから飲まないってば」    とユンファさんが俺を見上げてムッとする。  ……俺のほうが三歳年下ではあるが、今日のユンファさんは(酔っているような状態では致し方ないにしろ)まるで俺よりも年下、いや、まるで子供のようだった。   「……、全く、そんなことを言って…、……」    それにしても――やけに頑なに抑制薬を拒むユンファさんに、俺はやはり何かしらの異変を感じた。    ――聞くところによればオメガたちは、ある程度オメガ排卵期がくるその前兆を、身をもって知っているそうである。…それを具体的にいえば、たとえば微熱がでる、頭がぼーっとしはじめる(細かいことを考えるのが億劫になる)、また性欲が高まるなどであるそうだ。    そして、オメガ排卵期の周期が安定している人ならばなおその前兆は確信に近いものとなるため、概してオメガたちは、その前兆があらわれはじめた時点から抑制薬(と、念のため避妊薬)を飲みはじめるという。――それはもちろん、本格的に来てしまってから飲むよりか、来る前に飲んでおいたほうが本人も辛くなければ、周囲に迷惑もかけないためである。  ……また仮にその前兆なくオメガ排卵期が来てしまった場合であっても、初日の来てすぐの段階で抑制薬を飲んでおけば、(今のユンファさんのように)症状が重く出てしまうことを防げるのだという。    そして――そうした対応は、オメガたちの社会常識とされているくらいなのだ。    ――たとえば、まだオメガ排卵期というものに慣れていない十代のオメガならばともかく、二十代後半ともなったユンファさんがその前兆を知らないはずがない。…またあまりにも不意にそれが来てしまったにしても、その来てしまってすぐの段階で抑制薬を飲まない(探さない)というのは何か、やはり何か理由があってそれを飲んでいない(飲まないという選択をした)としか考えられない。   「……、どうしてまた…こんなこと、今まではなかったでしょう…? 今回はどうしたんです…」    俺は何かユンファさんの身に悪いことでも起きたんじゃないか、彼が何かしらに傷付いている(傷付けられた)んじゃないかと、心配してそう聞いた。――しかし彼は俺の二の腕に頬擦りをしながら、にんまりと笑ってこう言った。   「…えへへ…僕とえっちしてくれたら教えてあげてもいいよ…? 早くえっちしよソンジュ…、早く…」   「……はぁ…、……」    俺は目を伏せながら眉を寄せる。  ……教えてあげてもいいよ、か。しかし――とすると、やはりユンファさんは何かしらの理由があって抑制薬を飲まなかったのであろう。俺に(条件付きで)教えられるということは、それがあるということである。…まともに考えれば、だが。  いや、その理由はどうも知っておきたいところだ。俺は「むしろ…」と、この簡素な白と黒の部屋の中を眺めまわしながら――どこかに薬の袋がありやしないかと探しながら――こう言う。   「……その理由を教えてくださったら貴方を抱いてあげる。…つまり、それを俺に教えてくれるまで、俺は貴方を抱かない。いいですね…、……」    まあ…どうせまたユンファさんは何やかんやとはぐらかして、結局は俺にその理由を教えてはくれないのだろうが。  ……ちなみにユンファさんの部屋は相変わらず物が少ないので、すぐにその薬の袋らしいものがどこにも無いことがわかった。   「…ケチだな」    とユンファさんが拗ねたように言う。   「ケチで結構です。……」    やはり。  俺はまた歩き出そうとしたが、…ぐっと俺の腕に抱きついて俺の前進の一歩でさえも許さないユンファさんに、俺は多少苛立(いらだ)ちながら「何です」と再び振り返る。  ……ユンファさんは俺の片腕にしがみついたまま、その赤らんだ顔とぼんやりとした切れ長の目を伏せている。   「……わかった、教えてあげる。――昨日まで温泉旅行行っていたおじさんが…」   「……、あぁ…えっと、ユンファさんを“貸し切り”で三日間指名していたという人…?」    ……案外今日のユンファさんは、どうやらその理由を話してくれそうだった(なおそんなに俺に抱かれたいのかと思うと、実は俺はこのとき少しときめいてしまっていた)。  俺が確かめると、ユンファさんは目を伏せたままコクとうなずく。――そしてユンファさんは、俺がギョッとするようなことをこうボソリと言った。         「そのおじさん――(うち)来るかも、これから」         「……は…っ?」    にわかに顔を険しくした俺は、その不穏な言葉に胸さわぎがした。――しかしそのわりに、その危険が迫ってきている(可能性がある)当人のユンファさんは目を伏せたまま、どこかむしろ興味のない話を聞いているような退屈そうな表情で、さらに抑揚のない声でこう言う。   「…そのおじさん僕にガチ恋しているから、排卵日の僕とシたいんだって…――その人、なんか最近ちょっとヤバい感じになっていたし…一昨日(おととい)無理やりナマでヤられたからもう無理だなと思って、NGに入れようと思っていたんだよね。…でもその人、昨日の別れ際、それ察していたみたいで…――避妊薬とか抑制薬とか知らない間に盗まれていて、“どうせもう会ってくれないんでしょ?”って笑いながらそれ、全部川に捨てられた……」   「……、なる、ほど……」    そう話すユンファさんの冷淡さにもまして、どうリアクションをすべきやらわからないが……。  とにかくその「おじさん」とユンファさんに呼ばれている客の男が、あくまで仕事として男と(むつ)み合ってくれている彼に本気で惚れこみ、挙げ句の果てにはそうした暴挙に出たということは――俺は明日は我が身とも思わないでもないが――許しがたい行為であるとは俺にも思われた。…しかし俺とはあの「悪魔の囁き」にも見るように、正々堂々とは良心の呵責(かしゃく)からそう思えない男である。    そう…そして先ほどにも思ったように、こと周期が安定しているオメガは、実際にオメガ排卵期が来るその前に抑制薬を飲むことが常識となっている。――ユンファさんもまたそのようにして、本来は飲もうとそれを旅行に持っていっていたのであろう。…ところがそれを客の男に捨てられてしまった、と。  ……ユンファさんは俺の腕に抱きついたまま、つまらなさそうな顔でこう続ける。   「…もともと“借金全部返してあげるから結婚しよう、結婚して”って言われまくっていたからね…――それで昨日…“結婚してくれないなら、最後にユエくんの排卵日にえっちさせて。明日ユエくん家に行くね”って…。抑制薬飲んでいない僕を犯したいんだってさ…」   「…というか家来るって、まさかこの部屋の住所教えたの?」    まさかそこまで彼は不用心だったのかと俺は怒りそうになったが、しかしさすがにそうではなかったようだ。ユンファさんは目を伏せたまま、ふると一度首を横に振る。   「教えるわけないだろ。…ていうか、本当に知っているのかどうかもわからないよ…」    ……とのことである。  ひとまず俺は安心した。   「……それは…何しても、不安ですよね…。…だけれどまあ、とりあえず本当にその人が家に来てしまったとしても…――俺が居るから、大丈夫です。」    俺は先ほどもちろんこの家の鍵はかけたし、鍵さえかかっていれば居留守でも何でも使える。仮にそれで男が玄関先で逆上でもしたならば通報すればよい。そういった狂人とまともに対峙するだけ無駄である。その必要性はない。    俺は今日、予定通りユンファさんの家に来て本当によかった。――いや…むしろ俺がもし今日に何かしらの用事ができてしまい、この家に来られなかったならと思うと、俺は恐ろしいくらいである。    今日もユンファさんは家の鍵をかけていなかった。    ――やはりユンファさんは、つくづく一人にしておいてはいけない人だった。  その事情があってなお、いや、むしろそれだからこそ「僕は別に犯されても、孕まされても、殺されても構わない」と彼は言っていたばかりか、あたかも自ずからその破滅を望んでいるかのように家に鍵さえかけないでいたユンファさんが、俺はいっそのこと恐ろしかった。      しかし――俺にはまだ疑問が残っている。     「……、ということはじゃあ、家にはその…避妊薬や抑制薬は、もう無いんですか…?」    ……というのも、昨日その男に抑制薬や避妊薬を川に捨てられた――そしてオメガ排卵期がくる直前にそれを飲めなかった、というところまでは確かに、俺も納得していた。    とはいえ……男に貸し切られて温泉旅行に行っていたその三日間、おそらく旅館にでも泊まり込んでいたのだろうその三日間に、さすがに医師に処方された抑制薬の全てを持ってゆきはしないはずだろう。少なくとも抑制薬や避妊薬は一週間ぶん処方されているはずだ。    ……ましてや、昨日の時点で「明日(排卵期が)来るかもしれない」とわかっていたからこそ、ユンファさんはそれらを持ち歩いていたのだろう。――すると今日のこの状態は、今日の朝目覚めたらいきなりオメガ排卵期が来ていた、というアクシデント的な訪れではなかったはずである。    ともなれば、仮に男に抑制薬や避妊薬のすべてを捨てられてしまったのだとしても――旅行にはかさばるからと普通は小分けにして日数分持ってゆくものだとは思うが、とはいえ、薬の袋ごとすべて持っていってしまったという可能性も無くはない、そしてそれを袋ごと川に投げ捨てられてしまったのかもしれない、が――それこそ俺が先ほどにも彼に助言していた、オンライン診療を受診するだけの時間の余白はあったはずだ。    今は昼ごろである。  昨夜の深夜二時頃まで仕事をしていたとしても、彼は仕事が終わってすぐあとにでも、また今朝にでも受診はできたはずだった。  というのも…オンライン診療であれば、特に総合産科の医師は24時間在中していることが多い。それはオメガ属をふくめた妊娠可能な身体をもつすべての人々の、急を要する事態に備えてのことである。      ――「本当に捨てられてしまった」というのだけが、彼が抑制薬を飲んでいない理由なのだろうか?      俺が「(捨てられてしまったということは)もう家に抑制薬や避妊薬は残っていないのか?」と質問すると、ユンファさんは俺の片腕に抱き着いて寄り添ったまま、ふと俺の顔をにこやかに見上げた。   「へへ……もし本当におじさんが来たら、ソンジュ、僕の彼氏のふりをしてくれる…?」   「……そ、れは…まあ、やぶさかではないけれど……」    ……しかし、またはぐらかされてしまった。  はぐらかすということは、たとえ男に抑制薬(と避妊薬)を捨てられたということが事実であれ、やはりユンファさんには他にも抑制薬を飲まない(飲みたくない、飲めない)理由があるのだろう。    いや…むしろそうでなければ何かおかしい。  今のユンファさんからは「抑制薬を飲みたくない」という彼自身の意思が感じられる。――いくらその期間の楽天思考のせいで、今の彼はそのあたりの危機感が薄れてしまっているのだとしても……先ほどにも思うように、そうなる前に手を打つことはできたはずである。      

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