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                  「――ソンジュ、ほら僕はちゃんと教えてやっただろ…? 早くえっちしよう…」    とユンファさんが俺の片腕に抱きついたまま、俺の目を見て幸福そうに微笑する。   「……、…」    ふとその潤んだ薄紫色の瞳と目が合うと、俺はたちまちその美貌に見惚れてしまう――俺の目をやや見上げる彼の潤んだ二つの瞳、淡藤(あわふじ)色の虹彩(こうさい)の、中央の黒い瞳孔へ向けて放射線状にひろがる細かな(しわ)さえも見とめられるほど透きとおったその瞳には、やや厚みのある蜜に濡れたなまめかしい光沢がある。    俺はこのユンファさんの火照った瞳をよく知っている、とも言えるが――知らなかった、とも言える。  まるで情事のさなかのように艶めく白目をほんのりと極わずかな薄桃色にそめ、その美しい色のよく変わる瞳の表面を潤沢な蜜でたっぷりと濡らし、俺の水色の瞳の表面の角膜にその蜜を塗りたてるばかりか、その美しい瞳の蜜はこの二つの瞳孔から眼底へまで入り込み、たちまち俺の両目の硝子体(しょうしたい)をまでその蜜で浸潤させて支配してしまう。  その蠱惑的な、神秘的な、澄明(ちょうめい)な結晶のなかに水が内包された水入り水晶ならぬ、蜜入りの美しい貴石タンザナイトのようなその二つの瞳は――いつも俺は我を忘れたように()せられてしまうが――しかし、ある意味では俺の見慣れた瞳である。…彼を抱くときにはいつも見られるような瞳だった。    ところが――よく見ると今の彼のその瞳には、俺の知らない柔らかな嬉しそうな光華(こうか)がある。屈託がなく素直で純真な、悪くいえば男がつけ入るだけの、いや、男が思わず邪心を抱いてつけ入りたくなるような魅惑の隙がある。    そして今のユンファさんの顔色もまたそうだった。  まるで情事のさなかのように、もとは蒼白いユンファさんのその美しい細面(ほそおもて)の肌色は今、元来のわずかな青味をのこしながらも――うっすらと青みかがった、きわめて(ほの)かな薄桃色に染まっている。――しかし、むしろそのほの赤さがより彼の肌の透きとおるような白さと、そのみずみずしい透明感を際だたせて見える。  また、ことその痩せた両頬や鼻先、また彼のぷっくりとふくよかな下まぶたには、顔色よりかは濃い桃色がじゅわりとなめらかに、たっぷりの水ににじんだ薔薇(ばら)色の水彩絵の具のようににじみ――彼の顔は最中はいつもこのように紅潮するにせよ――その桃色には何か泣いている人のような、ときめくように胸を締め付けられる儚い(あわ)れさがある。    ましてや普段の彼のあの蒼白い幸薄げな顔色にくらべれば、今のこの顔色のほうがよほど人らしい血の気が感じられるせいか、かえって今のほうが色っぽいかもしれないし、何よりもやはり男の下心に付け込まれそうな危ういやわらかな可憐さがある。  ――この顔色を見て彼の艶容(えんよう)を連想しない男などいない。するとこれを見た男には、この火照った顔色はあわや「自分を魅力的に思っているから」だと無差別的に思われてしまうような、いうなれば「触れることを許されている」などと、男の本能が驕慢(きょうまん)な勘違いをするような顔色である。    また今日はいつもより唇も赤い。  そしてその唇に赤味をもたらす血流のみならず、新陳代謝もまた活発になっているためか、その肉厚な形の良い唇には普段よりもつるんとしたなめらかな艶もある。  ……青味を帯びた赤、いや、赤みの強い紫というような色に染まっているユンファさんの唇には、まるでなめらかなリップグロスでも塗ったかのような、ガラスにも近いぽってりとした光沢と透明感がある。    余計に濃艶(のうえん)な唇となってはいるが、しかしそれにしてはその大人っぽい官能性のなかに、やけに若々しい初心(うぶ)な印象もある。いや、もともとユンファさんのその唇はそうなのだ。唇の端と端の距離が少年の初々しい唇のようにせまく、一方の上下の唇の縦の厚みばかりがふくよかになめらかに、若々しくぽってりと膨らんでいるのだ。――まるでファーストキスをすら知らないような、少しだって相手に吸い尽くされて枯れてなどないような、彼はもとよりそうした可愛らしい少年の若々しい唇をもっている。    その唇がより赤くつやつやとぽってりとして、思わず唇を重ねあわせて驚かせてしまいたいというような、年下の俺にさえそうした大人の残酷な悪戯心がそそられてくる。  ……もちろん単なる俺の妄想だが――この無垢な少年の唇の純潔を奪ったならば、美しい彼という美少年は、俺という大人の裏切りに俺を失望の眼差しで見てくることだろう。…その眼差しのなかに芽吹いた快感への期待、恍惚、知ってしまった誰かの唇のやわらかさ、不安、困惑、(おそ)れ、そして――欲情。    何と艶麗(えんれい)な美男子だろうか――。    やはりユンファさんは世にも美々(びび)しい男であった。  俺があの夜に惚れ込んだ冷ややかで妖艶な美男子、普段の冷艶な蒼白い肌をもつ気の強そうな凛々しい美男子という印象は、今の彼にはその欠片ばかりしかのこってはいないが――もとの顔の造形から美しい怜悧(れいり)げな細面であるので、まさかその要素がすっかり作り変えられるはずもないが――しかし今はその顔が可憐にも火照った色に染まって、いつもならば気難しそうな硬い(つるぎ)のような鋭い表情ばかりの、その冷徹な美男子の顔は今やご機嫌にゆるまってばかりいる……これはこれで堪らない。   「…ソンジュ…? 聞いている…?」   「…………」    どうあってもやはりユンファさんは美しく魅力的である。…これはある種の美術技法的なコントラスト、あるいは人を魅了するにもっともなギャップとも呼べるもの――これは俺の知らなかった、彼の数限りない魅力のうちの一つの側面――かなり簡単に言えば、そう……。   「…可愛い……」    そう……今日のユンファさんは「可愛い」のだ。  ――俺はユンファさんに見惚れながらそう呟いたあとでハッとした。彼は俺に「可愛い」と言われることを嫌っているのか、俺がついそう言ってしまうといつもムッとしてしまうのだ。   「すみません、…」    俺はしまったと思った、またやってしまったと。      しかし――今日のユンファさんは違った。     「……へへ…、ソンジュ…?」    とユンファさんは顔を傾けながら――さら…と彼の艶のある黒髪が婉麗(えんれい)に揺れて、彼の片方のつった目尻にかかり――俺の目を見るその切れ長のツリ目を、まるで陽だまりで恍惚としている猫のように細めて笑う。   「…可愛いって…僕が…?」   「……え、…」    ……ユンファさんはムスッとしていないどころか、何か嬉しそうな期待したような笑顔である。俺の胸はドキッとした。それはなかば驚きであり、もうなかばはその愛らしさにときめいたのである。   「…そ、そう…今も、凄く可愛い……」    むしろ…可愛すぎる、かもわからない。  ……婉然(えんぜん)とした彼の媚態(びたい)は俺をこう支配する。きっと俺だからこそユンファさんはこうした愛らしい姿を見せてくれているのだ、とても俺以外には見せたくない姿だ、また恋敵(こいがたき)が増えてしまう、こんなに愛らしいユンファさんは俺が独り占めしてしまいたい。――案の定俺の男の本能は、否応なしに例の「驕慢な勘違い」をしはじめている。   「…可愛い…堪らない…」    俺はぼんやりと呟くように重ねてそう言った。  ――すると彼はにこっと微笑んでこう言う。   「…はは…嬉しい」   「……は、…はは…」    信じられない……いっそのこと恐ろしい。  いや、()()()()()()()()()()()()()()()()()()というのは、俺ももうすでに重々わかってはいるつもりなのだが…――などと俺が、愛する美男子の無垢な可憐さに動揺しているうちに、ユンファさんは俺のことをこう優しく睨んでくる。   「ところで…また僕に見惚れていたのか、ソンジュ。……もう…早くえっちしようって言っているのに…――早くベッドに行こうよ、ほら……」    とユンファさんは、俺の片腕にまわしていた両腕をする…とほどきながら、俺の片腕に触れさせているままのその両手を下へむけてすべらせてゆく。  そして俺の紙袋をもつ片手をとった彼の指先は熱く、そのまま彼は俺をこの部屋の窓辺のダブルベッドへと引いて導いてゆく。――俺はユンファさんに先導されて歩きながら、   「…そう、ごめん……今日のユンファさんは、何だかいつもより可愛らしいし、その…とても色っぽくてね……」    と目を伏せてしおらしく謝った。  ……それこそ俺がユンファさんの美貌に見惚れるというのは、彼が「また」といっている通り、そう珍しいことでもなかった。作家という職業が所以(ゆえん)か、俺には興味のある対象、こと美しいものをつぶさに観察してしまう癖があるのである。  しかもその観察中の俺というのは、心ここに在らずというような、誰かに話しかけられてもそれに気がつかないほど観察することに熱中してしまっている。    なお、いつもならば俺がそうぼんやりとユンファさんの美貌に見惚れていると、彼は少し不機嫌になりながら「またかよ、全く…」と俺に呆れてばかりいるのだ。――が、   「…そんなに僕の顔、好き?」と背後の俺にふっと振り返ったユンファさんは、自分の黒いニットの肩越しにニコニコしながら、俺を揶揄(からか)うように細まった横目で見てくる。…俺はどうも揺れがおさまりそうもない内心の動揺を感じて胸を押さえつつ、「ええ…」と彼にうなずいた。   「……勿論…本当に綺麗だ、今日も…」   「…本当…? ふふ、ソンジュは本当に僕が大好きなんだ…、……」    たどり着いたベッドの側、ユンファさんは俺に向かいあうなりはにかんだように目を伏せると、まるで初心な少年のように「嬉しいな…」と照れくさそうに微笑んだ。   「……、…、…」    何ということだろう……?  俺はもしや夢でも見ているのではないか?  ――ユンファさんが「ね…」と俺を熱く潤んだ薄紫色の瞳で見て、その綺麗な火照った微笑を少しかたむけながら、色っぽい甘えるような声でこう言う。   「…えっち、しよ…? 約束だっただろ…、君にちゃんと理由を話したら、僕を抱いてくれるって…――君に触れられたいの。ほら、…」    と無邪気に笑いながら目を伏せた彼の熱い手が、俺の下がっている片手を取り――「触って」と、黒いニットの張り付いた自分の胸板に触れさせる。…俺の手のひらの下、薄いニット越しの彼の片胸はあたたかい。肌に触れればきっと熱いくらいだろう。   「…ん……♡」   「……、…」    え、と俺は驚いてユンファさんを見た。  ……ユンファさんはなまめかしい小さな声をもらしたが、しかし俺はユンファさんの青年らしい膨らみのある片胸に、自分の手のひらを添えただけである。  ――彼はなまめかしい伏し目で、うっとりとこう言う。   「は…不思議だな…。ソンジュの手…いつもより、気持ちいい…――君の手、やっぱり気持ちいいな……」    ユンファさんは重たそうなまぶたをそっと閉ざし、自分の片胸にある俺の手のひらに手のひらを重ね、その方向へ顎をひく。   「…嬉しい、…ソンジュにちょっと触れられただけなのに、凄く幸せで…溶けちゃいそうになる…――涙が出てくるくらい…今の僕は、こんなにも君の手が嬉しい……へへ……」   「……、…」    あまりにも愛おしいと、俺はただユンファさんのその微笑みを眺めていた――が、   「……?」    今の、僕は――?  ……俺はユンファさんの言った、その「今の僕は」というのにいささか引っかかりを感じた。  しかし俺が質問をする間もなく、彼は何か自分を慰めるように、目をつむったままこう呟く。   「…でもしょうがないよな……だって今日、排卵日だし…。抑制薬も、飲んでいないし…――これは全部、排卵日のせいだから……いいんだ、しょうがないから、これでいいんだ……」   「……どういう、ことです…?」    と俺がユンファさんの顔をのぞき込むと、彼はちらと上目遣いに俺を見て、にやと可愛く笑った。   「…ん…? ふふ……別に…?」    ユンファさんが口角をあげたまま目を伏せる。  ……彼の伏し目は、(かげ)り憂いた哀艶(あいえん)の紺色に染まっている。 「ちょっと…幸せに、なってみたかっただけ……」   「……、幸せに…」    俺は胸を締め付けられた、が、はたと気がついた。  ――もしや、ユンファさんが抑制薬を飲まなかった本当の理由は…――ふとユンファさんが「ねえ…」と俺の目を不安げな群青色の瞳で見つめてくる。   「僕……ソンジュに、依存…していない…?」   「……は…? いえ、そんな…依存どころか…」    むしろユンファさんは、あたかも俺に興味がないような素振りばかりであった。依存?  それを言うならばよっぽど俺のほうがユンファさんに依存、…執着ともいうべきかもしれないが、とにかく俺が「依存している」というのならばまだしも、まさか彼のほうが俺に依存しているとは言えない。  ……ユンファさんは眉尻を下げ、俺にこう困ったように笑いかけてきた。   「……はは…でも大丈夫…、一週間後には僕、またいつも通りに戻るから…――迷惑かけて…ごめんね…」   「…そんな、とんでもない……俺、迷惑だなんてそんなことは少しも……」   「本当? じゃあえっちしよう。…約束だろ」   「……、…ま、まあ、約束は守るつもりです、…けれど……」    と俺が動揺しながらこう言っているさなかにも、ユンファさんはうっとりとした期待の眼差しを、俺の静かに動く唇にじっと向けてきている。 「……いずれにしても、抑制薬は探さないと…」   「…どうして…? いいよ別に、要らない…」   「…いやどうしてって…わかっていますか…。俺、これでも本当にアルファなんです……」    ユンファさんは俺というアルファ男の危険性をわかっているのかいないのか、はたまたオメガ排卵期の楽天思考のせいで、今は俺という男の存在も大した脅威には思えていないだけなのか。――俺の動く唇をうっとりと眺めてばかりのユンファさんが、「そう…」と熱いため息のようにこたえる。  彼の物憂げな艶のある黒い長いまつ毛の先は、やはり俺の唇へと向けられている。   「…じゃあ君は知っていた…? 僕はオメガだ…。ソンジュのつがいになれる、オメガ……」   「……、…」    俺はぞくりと背中の肌を粟立(あわだ)たせた。  その妖艶な息づかいのセリフに俺は戦慄(せんりつ)したのである。――先ほど頓服薬を飲んだはずの俺の体は、しかし今やまた病の発熱をしているかのように熱く、とくに俺の目の角膜はひどく乾燥していた。ぎゅっと強くやや長いまばたきを二、三度した。   「…っそういうこと、…っあ、アルファに言わないほうがいいですよ、…どうせまた俺を揶揄っているんでしょうけれど、…」    俺は慌てて跳ねのけるようにユンファさんを叱った。まるで俺がそのうなじに噛み付くことを誘っているかのようにも聞こえなくはなかった。  しかし彼は、俺のあきらかな動揺が目の前にあっても何ら動じることはなく、とす、と力が抜けたように背後のベッドに腰掛けてうなだれた。   「……はは…もしソンジュが今“狼化”したら…どうなっちゃうんだろうね、僕たち…――」    とユンファさんが顔を上げ、俺を神妙な表情で見あげてくる。   「つがいになっちゃうのかな…? そのまま…馬鹿みたいに、無責任に…――ソンジュは僕のこと、つがいにしたい…? そう思ってくれる…?」   「…そ、それは、…っですから、そういうことはアルファの……!」    俺のこのセリフをさえぎるユンファさんの、何か傷付いたような赤らんだ微笑は、俺のことをにわかに惑わせるほどあえかな綺麗な微笑だった。         「今は正直…君のつがいにされても、いいと思っているよ……」           

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