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「今は正直…君のつがいにされても、いいと思っているよ……」
とベッドに腰掛けているユンファさんは、儚げな綺麗な微笑で目の前に立つ俺を見上げて言った。
「……、……は、…、…――はっ?」
しかし、さすがにこのユンファさんの迂闊さは俺に怒りをさえ与えた。
よりにもよってオメガ排卵期のフェロモンをまともに嗅いでいるアルファの俺に、――もちろん俺は今狼化していないので、最 悪 の 事 態 にはなりようもないにせよ、――ともすれば悪い冗談では済まないセリフだった。…聞きようによれば俺がユンファさんをつがいにしてもよい、と誘っているようである。
たとえその機会が今日ではなかったとしても――アルファ属の俺のほうには狼化の時期をコントロールするためのピルがある。
すなわち彼のそのセリフにひどい勘違いをした俺が、彼の次のオメガ排卵期と自分の狼化との時期があうように図り、そして……彼は本当に危険な美人だった。
ましてやアルファ属の俺にはつがい解除の選択肢があり、また複数人のオメガ属をつがいにもできる――とはいえ、俺にそうした浮気な気持ちはもちろん無いが――。
その俺にくらべて、一方のオメガ属の彼は仮にも俺のつがいにされたならそのまま、俺のつがいのまま一生を終えることとなる。オメガ属にはつがい解除の選択肢はない。また、もちろん俺以外のアルファ属とはつがいになれない。
つまりオメガ属のユンファさんは、たった一度の過 ちで俺のつがいにされたなら――もう取り返しがつかない、一生その「過ち」を背負いながら後悔して生きてゆくこととなる。
すると、今の軽躁 状態の彼の「つがいになってもいい」を仮にも俺が真に受けて、その勢いのまま軽はずみに彼を自分のつがいにしてしまったなら、彼はどれほど悔やめど俺を恨めども、一生俺のつがいのまま、他の誰かと結ばれることもできないまま――ともすれば彼は、自分の一生にさえ絶望するかもしれない。
……ユンファさんは、自分のことを守るということを知らない人だった。それもあまつさえ彼は美しいばかりに、その美貌のせいでその危険性を強めている。
これほどの美男子に「つがいにされてもいい」と言われて、俺のアルファ属の本能が彼の血を求めないはずがなかった。…俺の残酷な本能という否応なしの自然原理は、愛という以前に、この美貌のオメガを自分のつがいにすれば――美貌のオメガを自分だけのものとし、その美貌によく似た美しい自分の子供を産ませれば――、自分の生殖本能が十二分に満たされることよく知っていた。
「…っあ、貴方、自分が何を言っているかわかって、…」
「うん、わかってる…――だって……」
美男子の恍惚とした顔が伏せられる。
とろんと寝ぼけ眼のようにゆるまったユンファさんの伏し目は、その艶のある黒いまつ毛の長さが際だってとても色っぽい。
「…僕、今はソンジュのこと…好きだ……」
「……、…、…」
俺は目を見張った。
歓 びより驚愕 のほうが勝っていた。
伏し目がちな可憐な微笑をたたえている彼のその顔は、まるで本当に俺に恋をしているかのようだった。
「……今なら君にうなじを噛まれてもいい…、むしろ噛まれたいと思っているし…、正直、ソンジュのつがいになりたいと思っている…。僕は君の子供なら、産んでもいいかもって…――むしろ、今すぐなかに君の精子が欲しい…――ソンジュの子、妊娠したい……」
「……、…」
俺の薄く開いた唇は、しかし言葉を失っていた。
頭が真っ白になった。何かを言いたかった。それだけ込み上げてくる感情が俺の胸の中いっぱいに満ちていた。――しかし胸の中に満ち満ちた俺の感情は、とても言語化をするにはたやすいものではなかった。
驚きであり、喜びであり、困惑であり、警戒であり、幸福であり、そして故しれぬ不安であり、怒りであり、悲しみであり、憂いだった。
俺が何も言えないまま茫然 として硬直していると、恍惚とした微笑をたたえて目を伏せているユンファさんは、さらに儚いささやき声でこう言った。
「…へへ……有り得ないのにな…。今は不思議と幸せかもしれないと思えるんだよ…――例えば僕と君が結婚をするだろ…。僕は君の子を産んで…、ありきたりな家庭を築いて…――優しい君の側で、君に愛されながら…君の子を、一緒に育てる……――きっと幸せだろうな…って……、……」
……しかし、そこでユンファさんが嫌悪したように眉を顰めた。彼の伏せられた黒い長いまつ毛の先には、まるで彼の重苦しい自己嫌悪がぶら下がって、それがそのまつ毛を下げさせているようだった。
しかし口角の上がった赤い唇で、彼は自分を嘲笑 うようにこう続ける。
「でも…それは結局、僕のオメガ属の馬鹿な本能がそう思わせているだけだ……別にソンジュだからじゃないんだよ…。ソンジュが、アルファだからなんだよ…――別にソンジュじゃなくても、相手がアルファなら、きっと今の僕は誰に対してでもこう思うんだよ…。だから、これは恋とか愛とかじゃなくて……君が好きだからとか、君を愛しているからだとか、全然そういうことではなくて…――僕が君に対してこう思うのは、ソンジュがアルファで、僕が馬鹿なオメガであるせいだ……」
ユンファさんはふと顔と目を上げ、「だから…」と俺の目を潤んだ薄紫色の瞳で見て、にこっと笑った。彼の秀麗 な眉はその眉尻が下がっている。
「だから今日だけ…。今日だけ、ソンジュの恋人でいてあげる」
「……、…」
ベッドに座るユンファさんを見下ろしている俺は、手に持っている紙袋を床に捨て、大木が倒れこむようにゆっくりと彼を抱きしめた。
――「どうして…」と俺は彼の耳元で、どこか不機嫌そうな、少し神経質な男の声を出した。
「…どうして、抑制薬を飲まなかったんです…――俺が来るとわかっていたのに、どうして……――どうして抑制薬を飲んでいないのに…メッセージや何かでも、俺に“今日は無理だ”と言わなかった…?」
「……へへ……」
ユンファさんは素直に俺の背中に両腕をまわし、ぎゅうっと俺の背中を抱き寄せてきた。
「会いたかったから、ソンジュに…」
「…そんなことを言われたら俺、…俺、正直勘違いをしてしまいそうだよ…――だが、だとしても…抑制薬を飲んだあとであっても、俺には会えたでしょう…?」
勘違いしそう…というのはほとんど俺の嘘だった。
俺は確信が欲しかったのである。――薄々わかっていたからだ。…ユンファさんは、俺 の 前 で 、抑制薬を飲んでいない自分でいたかった――抑制薬を飲んでいない自分で、俺 に 会いたかった。
……ユンファさんが抑制薬を飲まなかった本当の理由は、ま さ か の 俺 だ っ た のだと――俺は漠然とながらも察していた。
「君と見たかったんだ」とユンファさんが、笑っているような朗 らかな声で言う。
「…夢。」
「…夢…?」
「そう――ソンジュのことを心から愛している、僕の夢。」
「……、…、…」
俺は、――また泣きそうだった。
……それは、普段から俺を愛していなければ出てこない言葉だと、俺にはそのように思えた。
ユンファさんが見たかった夢――それは、
意地を張らずに、意地を捨てて、自分が抱えている恐れや不安、理屈、何もかもを放り投げて、ただ素直に俺と愛し合える、
――俺と恋人同士になった、「幸せな夢」だったのだろう。
「…どうして、その夢は、…っどうして、普段から俺と見られないんです、?」
泣かないようにと俺は無理に笑ったが、すると泣き笑いというような声になってしまった。
しかし俺の腕の中、ぎゅうっと俺の背中をつよく抱き寄せてきたユンファさんも、「だって…」と泣き笑いの声で言う。
「いつもの僕は、っソンジュのこと、……、……」
そこでユンファさんが、涙のせいか、それかその先を言いにくいのか、何かをためらって少し黙る。
……ややあってから、彼はまた泣き笑いの震えた声でこう言った。
「……ソンジュのこと、…嫌いだから、…君のことなんか愛していないから、――いつもの、僕は、…ソンジュが大嫌いだから、…」
「……、…そうですか…そう、…そっか、…」
俺は涙で目を潤ませながら、高ぶった感情に強ばっている口元に自然と笑みをうかべた。
天邪鬼 な性格というのは、まさにこのユンファさんのような人のことを言うのであろう。どうも俺にはそのようにしか思えなかった。
「いつもはソンジュのことなんか、本当、ほんとどうでもいいんだけど、…」とユンファさんが、涙をこらえているような詰まった調子でいう。
「…ただ、たまには面白いかなって、…また揶揄ってやろうって、弄んでやろうって、――そう思っただけ、別に深い意味なんかないよ、…あと薬捨てられたのも本当、本当に捨てられた、…」
「…はは…俺は別に、それを疑ってなんかいませんけれど…――でも…じゃあ今日は、ユンファさんは俺の恋人なんでしょう…?」
ユンファさんは俺にぎゅっとしがみついたまま、どこか不満げに「うん…」と低くこたえた。
俺は、俺の腕のなかで少ししゃくりあげて、わずかにひく、ひくと跳ねているユンファさんの背中を撫でさすりながら、彼の耳元で「あくまでも、ちゃんと最後まで俺を弄んでね…?」と念を押した。それからこう優しく尋ねた。
「……俺の、どこが好き…?」
「……、…」
ユンファさんはそれに答えることをためらっている。――俺は泣きながら笑った。
「言ってよ、明日の朝が来たらもう二度と聞けないんでしょう、どうか言って…――聞かせて、嘘でもいいから……」
するとユンファさんは、はぁ…とため息をついた。観念したようなため息だった。そして彼は羞恥したような小声でこう言う。
「…その顔と、体と…あと…ドSで、しつこくて、キスばっかしてくるところ…。…その癖…凄く、優しい、…ところ……」
「……優しいって、例えば…?」
俺がユンファさんの耳元でそう嬉しそうに囁くと、彼は俺を誑 かすための「演技」のわりに、こうつぶさに俺の好感ポイントを挙げ連ねた。
小さな、恥ずかしそうな、いつもの彼の不機嫌そうな、そのかすれた低い声で。
「……いつも…僕の体を宝物のように扱ってきて、足のつま先までキスしてくるところとか…、綺麗だなんだって僕をよく褒めてくるところ……ロマンチストで…僕の目を、優しい目で見つめてくるところ、…いちいち“大丈夫、気持ちいい、痛くない”って聞いてくるところ…、何かあるとすぐ僕を心配して、お節介焼いてくるところ……あと、――別にもう今更なのに、いつもゴム…僕が大切だからって、着けてくれるところ、とか……」
「……、そう…。はは…そっか、ありがとう…、ありがとう、ユンファさん…、………」
そっと目を閉ざし、ただユンファさんの熱くなった体を抱きしめている俺は、あたたかい愛の気持ちで胸がいっぱいになっていた。…すると俺の頬には嬉し涙が伝ってゆく――。
……案外俺の愛というのはユンファさんに通じていたらしかった。――普段はその実感を得られなかったが、…というのもユンファさんは、俺がどれほど優しくしようと、またどれほど俺が彼を心配しようとも、普段ならば何ら響いた様子のない冷ややかな目をして「はいはい」と面倒そうに受け流すか、ややもすれば「ウザったいからそういうお節介はやめてくれないか」と言い放つことも多くあり、そうして彼はしばしば俺のそれら愛情表現を拒みがちだったのである。
しかし「今この状態である」という口実を得ているユンファさんだからこそ、このように、本当は俺の愛が嬉しかったと教えてくれたわけであるが――俺はここで、はたと「ある記憶」が蘇 ってきた。
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