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俺がふと思い起こした「ある記憶」とは、ある日、めずらしくユンファさんが俺の自宅マンションに来たときの記憶であった。深夜一時ごろ、彼は前もっての連絡もなしに突然俺の部屋のインターフォンを鳴らした。
……その日は夏の台風が本土に上陸しており、外は警報が出るほどの暴風雨であった。――なお俺はその日のその午前一時ごろ、まだ自宅の書斎で仕事をしていた。俺の机は窓辺にあった。そのただならぬ激しい雨音と風音を耳のかたわらに置いて執筆をすると、何か不思議と捗 るようだったのである。
しかしそうして起きていたとはいえ、深夜一時をまわっているその人気 のない時間帯、それもよっぽどの用ありでもなければ誰も出歩かない警報をともなった暴風雨のさなかに家のインターフォンが鳴ると、さすがに俺の胸は怯えたようにドキッと痛むほど驚愕した。
その来訪には当然な不穏な感があった。
――俺は物音を立てぬようにそろそろと書斎の扉を開け、忍び足で廊下を歩き、そうして警戒をしながらモニターのあるリビングまで行くと、あえて「はい」とも答えず、リビングの入り口横の壁に取りつけられたモニターの画面をのぞき込んだ。
……ユンファさんだった。
彼の青白い頬には濡れた黒髪がぴったりとはりつき、彼は目を伏せて俺の家の玄関前に佇 んでいた。……俺はあわててモニターの通話のボタンを押しながら「ユンファさん? すぐ開けますね、…」と彼に声をかけ、すぐに玄関まで行って扉をあけた。
「…まだ起きていたんだ」
と俺の顔をみて開口一番、ユンファさんはそう青ざめた気だるげな顔をして言った。彼は頭からつま先までシャワー直後のようにびしょ濡れだった。彼の赤い唇が青ざめている。その人の濡れた虚ろな白い顔には水滴がいくつもつき、その白い顎からはポタポタと水滴が滴っている。
――そして彼の着ている潮垂 れた白いカッターシャツは、そのとおり絞れば水が溢れでてきそうなほどびしょびしょに濡れ、その人の青白い肌や薄桃の乳首まで透かせていた。…すると俺はわずかに、いくらそう人気もない街中とはいえ、彼はこんな格好で外を歩いていたのかと胸に差す翳 りを感じた。
しかし――それ以上に俺はギョッとした。
……彼の下腹部に青紫いろの痣 があったのである。といって玄関先でそれを心配することは憚 られた。時間も時間である。なお、彼は下には同じくびしょ濡れの水色のスキニーのダメージジーンズに、足にはグレーのクロッグサンダル(甲部分にポツポツと穴の開いた、彼のかかとが露出する靴状のゴムサンダル)を履いていた。
ユンファさんは傘を持っていなかった。
というよりかカバン類はもちろん何も持っていなかった。身一つで俺の家に来たらしかった。
――もちろん水もしたたるいい男なんて意味合いでも色っぽかったが、それより何よりもその異変のにおい、その自暴自棄の気配、やけに締まりのないその危うい格好、台風の豪雨のなかの深夜一時ごろの来訪、…彼はやはり危うげな妖しい魅力のある人だと思った。
……何かしら放っておけなくなる、いや、放っておいてはならないと胸に迫ってくるような、その危うさや自暴自棄で人を惹き付けているような、危ないよ、どうしたのと思わずお節介を焼きたくなるような、何か彼にはその美貌や悪賢いところばかりではなく、そういった儚げな魔性の魅力もあった。――これだから自然と人から貢がれるのだろうと俺が納得してしまうような、それは何か魅惑的な危うさだった。
「それともインターフォンで起こした? 無視すればよかったのに」
とユンファさんが無表情を変えずに言った。
「…いえ、来てくれて嬉しいです。……あの、どうぞ…? そんなことより早く入って…、それだけ濡れていたら風邪を引いてしまいますから」
ともかく俺はユンファさんを迎えいれた。――
ひとまずユンファさんにシャワーを浴びてもらっているあいだ、俺はあたたかいココアを用意していた。
俺の家にあるあたたかい飲み物の用意は、俺がよく飲むコーヒー、紅茶、それからココアがあった。
しかしこの時間にコーヒーは出せない。家にあるコーヒーはデカフェ(カフェインレス)のものではなかった。また紅茶というのもその特有の香りから好き嫌いがわかれるものであったので、ひとまずの安牌 がそのココアであった。
ややあってユンファさんがシャワーから上がって出てきた。
ちなみに彼が来たる俺の家のリビングは、コーヒー色の木製の家具と、黒く塗られたパイプなどの鉄、ほとんどその二色で統一されていた。コーヒー色の木板に黒いパイプの背の高い本棚――自著をふくめたあらゆる本類ですきまなく満たされている――と同じ造りの本棚のあいだに同色のテレビ台、その上に液晶テレビとルームディフューザー、テレビ台の前に黒いまるいラグマット、マットのうえには長方形のガラスの天板のしたでX字に交差する黒い足をもつローテーブル、そのローテーブルの前には三人がけの赤茶の革のソファを置いていた。
そのリビングに入ってきたユンファさんは、当然俺が貸した黒い半袖のTシャツに白いハーフパンツを穿いていた。肩には細長い白いフェイスタオルをかけている。
……リビングのソファにすわる俺のもとへ歩いてきた彼は、無言で俺のとなりにしずかに腰かけた。俺たちの目の前にあるガラスのローテーブルには、黒いマグカップに入ったホットココアがある。
「どうぞ、まあとりあえず温かいココアでも飲んで」
と俺は彼の前までそのマグカップをすべらせた。
「…………」
……ユンファさんは無表情のままにそれを見下ろしながら手にとり、両手でそれを包みこむようにもちながら、何も言わずにそれを一口すする。
「……、…」
俺はまたギョッとした。――彼の白い骨ばった手首には、縄で長い時間縛りつけられていたかのような紅 いあとが何重かになってのこっている。
ふと見ればさらに、ユンファさんの長めのその白い首の側面にも生々しい指のあとが赤黒く残っている。五つといわず点々といくつもだ。よほど強い力で何度も何度も首を絞められたのだろう。
明らかに何かあったとしか思えない様相であった。
明らかに暴力を振るわれたらしい痣、身一つ、この台風のなか傘もカバンもスマホも何も持たずに、まるで何かから逃げてきたかのような格好で俺の家に訪れたユンファさん――俺は嫌な想像をしてしまった。
……しかし俺は単刀直入な質問をするまえに、まずは彼にこう聞いた。
「何 で…来たんです…?」
「…歩き」
とユンファさんはマグカップのふちに唇をあてたまま、ぼーっとした伏し目で言った。
「…歩き…? まあ、それは……そう、か…。ですが、どこから……」
確かに台風警報が出ている今ではそうタクシーも頼れないし、何よりあれほどびしょ濡れになっていたともなれば歩きの他にはあり得ないか。とは思ったが、しかし俺の家とユンファさんの家は一駅ぶん離れている。近いといえば近い。歩きで来られない距離ということもないが、わざわざ気まぐれで一駅ぶんこの暴風雨のなかを歩いて来るとは、とてもではないが考えにくい。ましてや彼は俺の家に来るとき、大概タクシーか店の送迎の車で来るのである。歩きで来たことなどこれまでは一度もなかった。
「…ご主人様の家」
とユンファさんがぼそりと言う。
「……あぁ…、家 と近いんですか」
ユンファさんは鼻を鳴らすように「うん」と答える。俺はさらに質問をかさねる。
「…では、傘は…?」
「…僕、傘なんか持っていないから」
「…本当…?」
「うん…、……」
とユンファさんがまたココアをすすり――俺はあまり質問攻めにするのも鬱陶しいかとは思いつつ、さらに聞かずにはいられなかった。
「……というか…スマホですとか、財布ですとか…そういうものはどうしたんですか…?」
俺のこの質問に、ユンファさんはやはりぼーっとした伏し目でこう答えた。
「…多分…ご主人様の家にある…」
「…多分って…――あの、何か…ありました…? どうしたんです…。この台風の中、それも連絡もなしにだなんて、貴方にしては珍しい……」
「……、別に」
と目を伏せてぼそりと言うユンファさんのこれは、しかしいつものことではあった。彼の何かしらの異変を察知した俺が何かあったのかと聞いても、大体彼からはこの「別に」が返ってくる。
「……そう…。その、…ではその首や手首の痕 は、一体どうしたんですか…?」
俺はあまり詮索をするべきではないとはわかりつつ、しかしこの紅いあとが俺の家に突然彼がやってきた理由ではないかと、そのように見当をつけていた。もちろん誰しもがそのような見当をつけるだろうが。
ユンファさんは太ももの上に置いたマグカップで両手をあたためながら、うつむきがちにこう答えた。
「…別に…ご主人様に、調教されていただけ」
「…調教…、…それというのは、あの……」
どんな内容か、なんて聞いてよいものか俺は迷ったが、しかし正直にいってそれがとても気になっていた。本気の心配からの反面、確実に揺らめくような好奇心もあった。――ユンファさんはおもむろに持ち上げたマグカップから、またココアをず…と啜ると、事も無げな無表情の横顔でこう言った。
「…麻縄で縛りつけられて、拘束された状態で輪姦 される肉便器調教。」
「……、…それは……そうですか…」
なかば好奇心で聞きたがっていたわりに、いざ内容を聞いた俺は反応に困った。
少なくとも俺のサディズムにはその方向の嗜好 がなかったのである。とはいえ、だからといって自分がそうした嗜好をもつサディストより高尚かといったら決してそういうことでもないので、その嗜好をご主人様と楽しんでいるのだろうユンファさんには、「そうですか」という否定も肯定もない受容しかできなかった。
実際俺の嗜好範囲外であったので肯定はできなかったが、かといって否定をするつもりも本当になかったのだ。――ただ…俺はこう当たり前の推理をした。
「……もしかして…ご主人様から逃げてきたんですか…?」
とはいえ、俺はたとえこの質問がユンファさんにとって図星であったとしても、どうせ彼の返答は「違う」という否定だろうと思っていた。彼は誰相手にもそのようだが、俺のこともまるで頼ってはくれない。
「……、…」
しかし――彼はマグカップを口元に寄せたまま、きちんと見ていなければ見逃してしまうほどに小さく、コクと頷いた。
俺はえ、と思った。
ユンファさんが頷いたのである。
――ざーーと大人数の嗤 い声のような雨音と、ガタガタと軽躁 に揺れる窓枠の音が、リビングの二人の沈黙を誇張する。
「…………」
「……、…」
ユンファさんはまたココアを一口飲み、俺はとっさには何も言えないまま目をしばたたかせていた。
「……えっと…何が、あったんですか…」
ややあって俺はやっとそう彼に質問した。
「……色々…」とユンファさんは濁して答えると、その物憂い横顔にうすら笑いをうかべた。
「…僕、捨てられるかも…」
「っす、捨て、? ……」
俺は一瞬ユンファさんに怒りそうだった。
――「捨てられる」ではないだろう、と思ったのである。…これだけの痕がのこるほど酷い暴力を振るわれ、耐えかねて俺の家まで命からがら逃げて来て、それこそユンファさんがそのご主人様とやらと縁を切るのならばわかるが、その男のほうに彼が「捨てられる」とは耳を疑った。
マゾとはいえ、彼は明らかに「捨てる側」に立ってもよいのだ。彼にも縁を切る権利がある。サドとマゾの関係性も、プレイ外においてはもちろん対等である。
にわかに信じがたいと、俺はこう聞いた。
「…す、捨てられるって何です…?」
「…ご主人様に…。逃げてきちゃったから…」
とユンファさんがぼそりと悲しげな伏し目で言った。俺はおもわず眉をひそめた。
「…ですが、何か嫌なことがあって逃げてきたんでしょう…、それなら、貴方のほうから縁を切ったっていいじゃないか。――それこそ、貴方のご主人様になりたいサディストなんかこの世の中にはごまんといることでしょうし、相性が悪くなってきたと思うのなら、その人にだけこだわる必要は……」
「確かに…。ソンジュ、いいこと言うね…」
ユンファさんは微笑して俺に振り向いた。
――ひどく幸薄げな微笑だったが、彼は何か俺に感心したようであった。
しかし…俺はいま特別なにか俺独自の哲学を語った、というわけではない。むしろ極ふつうの考えと言ってもよいような内容だったろう。だのに、やけにユンファさんは感心したようだった。
彼の眉尻は下がっているが、彼は何かしら憂いが晴れたように俺を見ながらにこっと笑う。
「…正直殺されるかもって思って、…僕を輪姦 していた男たちがみんな寝始めたから、その隙に逃げてきたんだが……ただ此処に来るとき、歩きながら…やっぱり戻った方がいいんじゃないかって考えていたんだ。戻らないとご主人様に捨てられてしまうかもって…――でもつまり、僕は戻らなくて正解だったってことだよな。」
「…そう……、…うん、そう。それで正解です…」
が……ここまでの激しい暴力を振るわれて命の危険をさえ感じ、わざわざこの暴風雨のなか必死に逃げてきたというのに…――その道中、「やっぱり戻った方がいいんじゃないか(戻らないとご主人様に捨てられてしまうかもしれないから)」と考えるだなんて…と、俺は何か引っかかるところがあった。
もしや彼は、そのご主人様とやらに何か洗脳でもされてしまっているのでは…――とこのときの俺は思ったのだが、結論から言ってそれは違ったようだ。
ユンファさんは俺の言葉をきっかけにか、このあとすぐにそのご主人様とは縁を切り、また新たなサディストをご主人様として連れあうようになったのである。
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