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31 ※微

               そのあとユンファさんは、幾分か雨ふりだった気持ちが晴れたようだった。――もとよりそれほどお(しゃべ)りな人ではないにしろ、あのあとには普段くらいのそれなりな口数と、いつものあの高飛車な態度が彼のもとに戻ってきたのである。あれでも彼なりに落ち込み、不安であったのだろう。  ……ちなみにユンファさんは俺と何でもない話をしているうちに、俺が出したココアを飲み干した。    すると俺は、なるほどユンファさんはココアが好きなのかと、また一つ彼の好物を知れたようだった。  ……思えばユンファさんが愛飲するタバコのフレーバーもラム・チョコレートである。すると彼はそもそもチョコレートが好きなのかもしれない、と俺は気がついた。    とはいえそれらは全て俺の推測に過ぎなかった。  ユンファさんは俺に何が好物なのか、どういったことが好きなのか、そういった自分が好きなものに関してはそれとは言わない。おくびにも出さない。彼は俺に自分の好みをあまり聞かせてくれなかったのである。――しかしその一方でユンファさんは、自分が気に入らなかったものに関しては平気で残すし、むしろ嫌いなものに関しては「これは嫌いだ」とはっきり言うこともままあった。    ココアに関しても、ココアが好きだとか美味しいだとかそういったことは何も言わず、また別段美味しいという幸せそうな顔をしてそれを飲んでいたわけでもなかった。…ほとんど無表情で俺と話しながら淡々と少しずつ飲んで、そして完飲した。  しかしココアに関しては嫌いとも言わず、また完飲もしたので、それだからユンファさんはココアが好きなのかな、と俺には思えたというだけのことだった。    またチョコレートに関してもそうである。ユンファさんはある高級チョコレート店の口どけがよいトリュフチョコレートが好物なようだったが、かといって美味しいだとか好きだとかと言うわけでもなかったし、ほとんど無表情でそれを食べているだけだった。  ともすれば()()()()とむしろまるで不味(まず)いものでも食べているかのようにも見えたが、しかしよくよく観察してみれば、ユンファさんは深緑の浅い化粧箱に入ったそのトリュフチョコレートを、何かやけにひと粒ひと粒大切そうにじっくりと味わって食べているようだった。    なお俺ははじめは様子見に少サイズの九粒入りのそれを彼に贈ったが、もちろん彼はそれを一人で完食した(ただしそれは彼に「君も食べたら」と言われた俺が「一人で食べていいですよ」と答えた結果でもある)。――それだから俺は、あぁユンファさんはこのチョコレートを気に入ってくれたのだな、今度も買っていってあげようと思ったのだ。    ちなみに、たとえばそういったときに俺が「好きなの?」と聞くと、ユンファさんは「まあ」と一応の肯定はした。――とはいえそう言うときの彼の顔は好きなものに接している人のそれではなく、むしろいつもつまらなさそうな顔をしていた。  ましてやユンファさんは俺が買っておけばそういったココアやチョコレートを食べてくれるが、ひとり暮らしをしていたときにしろ、また結婚後にしろ、自ずからそういった菓子などの嗜好品を買って食べるようなことはしない。ことひとり暮らしをしていた彼の部屋にはタバコの他に嗜好品など何一つなかった。菓子の一つもなく、また冷蔵庫にもほとんど何も入っていない状態であった(ちなみにひとり暮らし時代の彼は、食事はほぼ必ず例の「おじさんたち」に奢られていたようである)。    あれば食べる、飲む。無いなら別に無くてもよい。  やはり人生においてこれがあればこそ、だとか、これがあるから生きてゆける、だとか、そういった生きるに張りあいとなる執着の気配が恐ろしいほどに無い人であった。    とはいえ――ユンファさんのそうした好みというのは、いまや俺の中でなかば確信ともなっている。  結婚をしたのちにも、彼は俺がココアを出すとやはりそれを完飲する。飲むかどうかの確認をせず突然それを()れて出しても彼はいつだって完飲する。チョコレートに関してもそうである。彼は相変わらずあのトリュフチョコレートが好物で、大サイズの四十粒入りを買っておくと、冷蔵庫のなかにあるそれは日に三粒ずつ減ってゆく。  もちろん依然として美味しいとも何とも言わない、食べても飲んでもなんら幸せそうな顔をするわけでもないが、とはいえやはりユンファさんはココア、ひいてはチョコレートが好きなのであろう。      さて――ユンファさんがココアを飲み終えたあと、俺たちは歯磨きなど寝支度を済ませて(頻繁ではないにせよ、彼が来たなら泊まりとなることも多かったので、俺の家には彼用の歯ブラシが置いてあった)、そして自然の流れで寝室にあるベッドに入った。それのサイズは大の男二人が寝てもまあまあ余裕のある、横幅160センチ・縦幅190センチのクイーンサイズベッドである。  ――ちなみにこのときの俺のベッドは、白いベッドシーツにグレーの夏用の薄い羽毛布団があり、白い枕はベッドの横幅にあわせて二つといった様相であった。…俺の家には、ユンファさんと出逢う前まではしばしばセフレたちが来ていたので、そのサイズのベッドが都合よかったのである。    ただし俺はこの日にユンファさんが家に訪れたときから依然として、彼を抱くか否かというのは迷いつつもどちらでもよいと思っていた。――少なくともこのときの彼に関しては俺の家に逃げてきたというだけで、間違っても俺の肉体を目的として我が家に訪れたわけではない。…また何よりその人の体は手ひどく痛めつけられたあとであったので、俺は強いて彼を抱く気にはなれなかった。    しかしユンファさんは俺たちがベッドに入り、寝そべる前の並び座っている段階で、俺にキスをしてきた。――俺の唇の能動性をかき立てるようにあえてゆっくりと、はむ…はむとうごく彼の柔らかい唇は、幸い先ほどのココアであたたかくなっている。    俺はユンファさんの片頬や耳もとをするりと撫でてそのやわい唇を何度か食みかえしたあと、彼の俺と同じだけまぶたのしなだれた半目を伏し目がちに見つめながら、こう彼の唇に囁いた。   「…したいの…? だけれど、大丈夫なんですか…」    俺はユンファさんの体が気がかりでそう聞いた。  彼は過酷な調教を長い時間受けてから俺の家に来た。現に体中あざだらけである。――いまに交わした官能的なキスとその情欲の半目開きに、俺の気持ちは彼の肉体に向かいつつあったその反面、愛する彼の体を尊重したいという俺の気持ちも嘘ではなかった。  しかし、   「…して…」    と俺の目を切ない半目開きで見つめながら言ったユンファさんの、そのあえかな吐息のような返答は、外のどしゃ降りのなかに(たたず)む人の呟きのように、悲しいほど雨音のノイズにまぎれて消え入りそうな声だった。――      俺はもちろんそのままユンファさんを抱いたが、ところで、俺があの最初の夜に得た例の「気付き」――この美男子を俺に振り向かせるためには、彼が公言しているマゾヒスティックな嗜好を満たすよりか、まずは自分が俺に愛されていると感じられる行為、その体を何よりも貴重で何よりも高価なものとして扱う、優しすぎるほどの丁重な行為――すなわち、やさしい甘やかすような行為こそが必要だと、俺はそのように勘付いていた。    俺はあの夜こそ多少の加虐性を露見させてしまったが、それ以降はできる限りその目論見どおりの愛撫をユンファさんにほどこした。  ……とはいえ…やはりどうしても根っからのサディストである俺が、世間一般では普遍的な「ただ優しいだけ」の行為ができたかといえば、…いや、できなくはなかったが――俺にとって優しい行為をする、というのは何も難しいことではない。  なぜかといえぱ、ひたすらに優しい行為と加虐行為のどちらをも熟知というほど知っていて、はじめてサディストは加虐行為の(よろこ)びを得られるものだからだ。    ――背徳とは禁断の果実である。  善悪の分別がついていない悪などその者にとっての正義でしかない。しかし正義では悪の甘美な旨味がない。…これは優しい、正しい、これは酷い、間違っている――「いけないこと」をいけないことだとわかっているからこそやっていて楽しいのだ。むしろそれだからこそSMプレイなのだから、まずはその「いけないこと」が何なのかをよく知っておき、すると自然と反面の「正しいこと」もわかるようになってゆく。  ――その善悪の分別がついていてこそ、はじめてサディストは加虐の悦びの真髄を堪能できる。    ましてや優しさを知らないサディストは(あめ)のやり方が下手だ。つまり自己陶酔した、独り()がりの驕恣(きょうし)的三流サディストだということである。  (むち)だけ、膂力(りょりょく)の猛々しい暴力だけで人を従わせることほど簡単なこともない。それなら単なる下衆(げす)でも馬鹿でも誰でもできるが、だからこそ張り合いがなくて何ら面白くもない。    遊戯(プレイ)なのだから、楽しくなければならない――そして鞭だけでは人の心を掌握しきれない。  たとえばサディストとマゾヒストという関係性のほかにお互いを固く結びつける何かがあるのならまだしも、その両極しか結びつけるものがない場合、飴のないサディストは唯一無二の存在とはなり得ない。    手ひどくされたのちに与えられる甘味は人をとろけさせる。鬼の顔をして愛するマゾヒストを飢餓まで追い込んでから、餓えに苦しむマゾヒストへ仏の顔をして与える飴、試練という鞭を与えることばかりがサディズムと思われがちだが、サディズムには飴もなくてはならない。支配、躾にはとびきり甘い飴もまた必要なのである。  心酔されうるサディストは威福(いふく)(ほしいまま)にする。…故にサディストは、飴と鞭の分別もまたついていなければならない。    それだから俺も「ただ優しいだけ」の行為をしようと思えばできた。――しかしマゾヒストであるユンファさんにそればかりで飽きられてしまうことを避けたかったのもあり、いわば彼との行為において「ドS」という程度にはそのほうも活用していた。  ……いや理由はそれだけではない。愛する美男子の被虐性愛にそそられて、まるで好きな子を泣かせて悦ぶ少年のように、俺はついつい彼をいじめてしまいたくなっていたところもあったにはあったのである。    しかしユンファさんは俺の「ドS」の側面をわりに気に入ってくれていたようである。ましてや彼の体もまた、いや、少なくとも彼の体ばかりは、俺のちょっとした加虐には素直に(よろこ)んでくれていた。    とはいえ……この日はとくに、俺はユンファさんに入念なやさしい愛撫をほどこしていた。すなわち誰か顔も知らないサディストが彼を苛烈(かれつ)に鞭打ったと見たので、それこそがこのときの彼の心をとろかす飴であると考えたからである。    まずはじっくりとユンファさんの唇を揉みほぐすようなキスをしながら、黒いTシャツの上から彼のひらたい胸をまさぐる。そのまさぐる圧力はそう、Tシャツの布がすこしもずれ動かないほどにやさしく、その布の表面を撫でまわすだけというほどにやさしい加減である。   「……ん、んん……♡」    するとユンファさんが早速あまえた声をもらし、俺の唇を食みかえしていたその人の唇の動きがとまる。  俺に一方的に食まれるようになった彼の肉厚な唇は、はぁ…はぁ…ともうそれらしく速まった呼吸を繰り返し、俺の口に桃の香の甘い蒸気を食べさせてくる。――俺の手のひらの下、薄いTシャツに浮かんだ小さい突起の先端をカリカリと爪先でひっかく。  ……ユンファさんが「……ぁ、♡」とビクッと腰を跳ねさせた。彼の片手が俺の部屋着のTシャツの袖をぎゅうとつかむ。びく、…びくびく、と彼の上半身が静かに断続的に弾む。   「……、…」    俺はふとやや引いてユンファさんの顔を見た。   「…っは、…はぁ、…は、……ん、♡」    ……ユンファさんはその黒い長いまつ毛を伏せてきゅっと目を瞑っていた。その黒眉は物憂げに寄り、眉尻は下がっている。彼の赤い唇はきゅっと結ばれている。白い頬にはじゅわりと薄桃が差し、……ふと下を見れば、もぞ、もぞと彼の腰が小さい動揺をしている。彼のなだらかな山形に立つ両脚のその膝頭は密着している。    俺はまだユンファさんの唇をゆっくり食みながら、その胸板をやさしく撫でまわしたあと、数回カリカリとTシャツの上から乳首の先端を軽くひっかいただけであるが――ユンファさんは恐らく、最高潮ではないにしても絶頂に達したのである。   「……イッたの…?」    俺はユンファさんの耳もとでやさしくそう尋ねた。彼の桃の香のしっとりとした熱気をまとう耳が、恥ずかしげにコクと小さく縦に動いた。   「……ふふ…可愛い…」   「………はぁ……」    しかし俺の「可愛い」には、彼は不機嫌そうなため息をつく。     「あ、ごめんごめん……」      そう…こうしてユンファさんは、俺に「可愛い」と言われることを嫌っているようだった。        

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