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「ほんと…ソンジュだけだよ」
と事後のベッドのなか、仰向けになって俺に腕枕をされているユンファさんが退屈そうな伏し目がち、呆れたような低い声で言う。
彼のその端整な顔には、先ほどの幾度とない熱波の余韻からいまだほのかな赤らみがあり、しかしその伏せられた黒い長いまつ毛の下にある瞳は蒼然 として、とても静かな目色である。
「…俺だけ、って…?」
俺がそう尋ねると、ユンファさんはもぞりと静かに俺のほうへ寝返りをうち、その生白い骨ばった男の片手を、俺の象牙 色の胸板にそっと添えてくる。俺の肌にふれた彼の手はあたたかい。
そしてユンファさんは伏し目がち、「…ふふ…」と色っぽい含み笑いを鼻からこぼす。
「……君、散々僕のことを愛しているだ付き合ってくれだと言ってくる癖に…、その割には、僕のまんこには興味が無いんだろう……?」
言いながら彼の五本の長い指がおだやかに波打ち、その五本の指先で俺の胸のうすい皮膚をくすぐるように撫でてくる。――それにしても俺は、彼の言っているそれの意味がどうもピンとこなかった。
「……? いや、そんなまさか……」
なかば無理強いをしてでも自分の彼氏 としたいユンファさんに対する俺の興味というのは、確かに彼の肉体を越えた先にまで及んではいるが、かといって、彼と会えば一度や二度では飽き足らずに夢中でその麗 しい月華の肉体をむさぼっている俺が――俺のその度重なる情熱的な行動が示すとおり、彼の肉体もまた大そう気に入っているこの俺が――なぜ彼の肉体、厳密にいえば彼の膣に興味がない…――ということになったのやら、俺は否定的な釈明をしようにも彼がそこに行きついた道理がまずわからないので、曖昧な否定しかできなかった。
「……何故そうなるんです…? いや何なら俺、ユンファさんと会えば、それこそ一滴も出なくなるまで貴方の体を求めているじゃないですか…?」
俺のこの訝 った質問に、ユンファさんは「ふふ…」と意味ありげな含み笑いでこたえた。
そしてその人はおもむろにベッドに肘をつき、なかば上体を起こす。――彼の生白い胸板に紅 い輪郭のにじんだ歪 な丸、俺の唇の痕 が三つほど、まるで新雪に散らばる赤い山茶花 の花びらのように散らばってついている。……山茶花の花言葉は『ひたむきな愛』、『理想の恋』、『困難に打ち勝つ』、赤い山茶花の花言葉は『謙譲』、『貴方が最も美しい』……
このときの俺の頭の中になぜかしら羅列された山茶花の花言葉は、その実吉兆であった。
しかしその花の理性的な花言葉に反して、この両目の間近にあるその白い雪に散った艶めかしい山茶花の紅い花びらに、にわかに最中の記憶を思い出した俺の恥骨が情欲に疼 く――いつもこうしたちょっとしたことで際限がなくなるのである――。
が…しかし、俺のことを妖艶な暗い紫いろの瞳で見下ろしてくるユンファさんのその鋭い眼差しに、何かともすれば彼が俺に怒っているか呆れているかと見えたので、まずはおよそこの件における自分の無辜 を彼に証明する必要があるようである。
……とはいえ、無闇やたらな釈明をしても言い訳としか聞こえまい。その前に俺はユンファさんの考えを聞かなければならない。
「要するに…どういうことです…?」
「…ソンジュは生 でしたくないのか…?」
とユンファさんが冷ややかな眼差しで俺を見下ろしながら反問してくる。
「……、…はい?」
藪 から棒に何を言っているのやらと俺は思わず聞き返したが、あいかわらず彼は光のない暗い切れ長の伏し目で俺を見ながら、俺をあなどった笑いをふっと鼻からもらす。
「…だから…オメガ男の僕と生でしたがらないのは、馬鹿真面目な君だけだと言っているんだよ。」
「……、…」
ここで俺は、なんとなしユンファさんの言いたいことがわかったような気がする。――ことオメガ属男性の膣は、世の男らに「幻の名器」とさえ称されており、ある意味ではある一定数の男らの羨望の的 である。
彼らオメガ属男性の膣というのは、他属性別の膣内よりも構造が複雑であるぶん、挿入された陰茎にそれ相応の独自の強い快感をあたえるとされている。
そして、そもそも男女かかわりなくオメガ属は全三属性のうち一番に出生率が低いため、オメガ属とは出会おうにもなかなか出会えないことから、巷 では「幻の名器」とさえ多少誇張された噂 が囁かれているのである(結局のところそこまでの名器か否かの判断は好みによるだろうが、確かにオメガ属の人口は少ないにしろ、かといってオメガ属専門の風俗店も存在しているので、「幻」はいささか誇張気味である)。
そして更にそれにつけ加えるとすれば、オメガ属も両親のアルファ属の特徴を顕著に受け継いでいるユンファさんの膣は、その独自の構造をもつオメガ属男性の膣をさらに窄 くちいさく締まりよくしたような膣である。平易 にいえば彼の膣においてはまさしく「名器」といって差し支えない。
したがってユンファさんは、希少価値がある自分のオメガ属男性の膣、それも名実ともに「名器」と称賛されている自分の膣の誘惑に負けず、必ずスキンを着けて彼を抱く俺に――自分の希少価値のある高刺激的な膣(が陰茎にもたらす強い快感)に男として興味がないのか、と、そう言いたいのであろう。
……いや思えば彼は、あの最初の夜にも俺が何もいわず当然のようにスキンを着用したことに対して、「僕、オメガ男なんですけど…?」とやけに困惑していたか。
それの裏を返せば――それだけユンファさんは、相手の男らにスキンを着用されないまま抱かれてきたということである。…彼はむしろ相手の男がスキンを着けないほうが尋常、当然だと思いこんでいるのである。
……俺はふと切なくなった。
「…いや、俺は興味が無いわけではなくて……」
ユンファさんはやはり愛を知らない人であった。
……先ほどの解釈につけ加えて、要約すれば彼は「(俺は)自分を愛しているのに、なぜスキン着け続けるのか?」というようなこと言っていた。
まるで愛しているならそれこそスキン無しで自分を抱くものだろう、とでも言いたげなようではないか。あるいはそう言うことで、単に俺を煽ってきただけなのかもしれないが――なぜ俺がスキンを着けつづけているか?
むしろ逆である。彼を愛しているからこそだ。
いやそれというのは、それこそ普通の価値観をもつ人相手には説明さえ要らない、なんら疑問さえ浮上しない、それこそ先ほど俺は流れで近しいことを言いはしたが、わざわざ「貴方を愛しているから、貴方が大切だからスキンを着けますね」などと言ったほうがよっぽど怪しまれかねない、スキンを着用するとはそれくらい当然の愛情表現である。
いや…ユンファさんもそれが俺の愛なのだと、本当はわかってはいたのであろう。
「俺は貴方を大切にしたいから…」
「何故使い捨てのまんこを大切にする必要がある?」
と冷笑をうかべたユンファさんが俺を見下ろしながら言う。
「……、…」
俺はそのはなはだ過激な卑屈なセリフに言葉を失った。――ユンファさんはベッドに着いていた肘の手をベッドに着き、腕を立てると、俺のほうへ体を向けたままベッドに座る。
「…僕はソンジュと付き合う気も、ましてや君と結婚なんかする気もさらさら無い。君に面倒な責任なんか発生するわけないだろ…? 過去も、今も、そしてこれからも、永遠に…――僕をどうしようが、ソンジュには何の責任も生じないんだよ。」
「…………」
そのユンファさんの言葉は、やはり俺の恋心への威嚇だった。――彼がなかば腰をひねる。
そして、彼はベッドサイドテーブルの卓上ダストボックスのなかから使用後のスキン――中にたっぷりと俺の白濁した精液が溜まっている、口の縛られた透明なピンク色のスキン――の口あたりをつまんで拾い上げると、それをプラプラと揺らして、自分もそれの揺れをみながらに俺にもそれを見せつけてくる。
「…これ全部なかに出されたら、どんな感じなんだろうな…?」
「……、…」
アルファ属の俺の多い精液がたっぷりと溜まり、まるでしおれたピンクの水風船のようになっているスキンの振り子のような妖しい揺れから、俺はわざと目をそらした。意味もない斜め下へ瞳を向けた俺は強がって笑う。
「はは…どんなって…別に、ベータの人たちと同じ…」
「いや…ソンジュのこれだけの量のザーメンを中出しされたら、流石に僕も妊娠しちゃうかも…。この量と濃さじゃ、避妊薬も太刀打ち出来ないかもな…」
「……っ」
俺はユンファさんのこのセリフにドキッとした。
俺の男の本能が反射的に俺の心臓を叩きつけたのである。――とはいっても、もちろんこれは彼の冗談であるとわかっていた俺は、なかばあわよくばの冗談をこう返した。
「…じゃあ妊娠したら俺と結婚してくれますか。それならば喜んで生で……」
「ふ、妊娠したらもう君とは会わないよ。」とユンファさんが、すこし笑いながら当然のように断言的にいう。
「…君だって面倒だろ。…まだ若いのに、瘤 付きパパなんかになるっていうのか。」
「…なりたいよ、貴方との子のパパにならね。…というか会わないって……ずっと言っているでしょう。むしろ俺は、その責任を取らせてほしいんです…」
「後悔する癖に。…ねえ若気の至りって…人生を狂わせることもあるんだぞ、青年。…ふふ…君、こういう御伽噺 を知っているか――?」
と前置きしたユンファさんは、こうその「御伽噺」を語りはじめる。――なお、その「御伽噺」を語るユンファさんの声は、まるで絵本を子どもに読み聞かせているようなおだやかな声だった。
「あるところに、馬鹿で愚図 で性格も悪くて、誰にも愛されない悪い魔法使いがいました。…嫌われ者の悪い魔法使いは一人で寂しく生きていましたが、ある日、美しい王子様が寂しく暮らしていた悪い魔法使いを見つけ、“一人でそんなところにいないで、こちらへおいでよ”と、悪い魔法使いを暗闇から救い出しました。…」
「…………」
俺はこの俺の知らない「御伽噺」になにか悪い直感があり、目を伏せて、ユンファさんが語るその「御伽噺」に耳を澄ませている。
「しかし王子様は、王子様として生きるだけのお金がたくさんたくさん必要でした。…ある日、王子様は悪い魔法使いに泣きついてこう言いました。“悪い人たちに借金があるんだ。だから連帯保証人になってくれない?”」
「……、え…?」
俺は鋭い動きではたとユンファさんに振り返った。
といっても座っている彼を見上げた形だが、…彼は灰色のかけ布団のなかでゆるく立てた腿の上に片手に持つスキンをのせ、冷ややかな微笑を浮かべ、何かを見ているようでもない虚ろな伏し目であった。彼はそのままやけに軽快な声でこうつづける。
「悪い魔法使いは迷いましたが、優しい王子様を信じていた悪い魔法使いは、愛する王子様のために連帯保証人になってあげました。」
「……、…」
以前ユンファさんは三千万の借金があると言っていた。――そして彼はその多額の借金を、自分が金遣いが荒いので背負ってしまったものであると俺に説明していたのだ。
「ところがある時王子様は、悪い魔法使いの前からいなくなってしまいました。探しても探しても王子様は見つかりません。そして悪い魔法使いのところに、悪い人たちがやってきました。“金を払え”――」
ユンファさんの目を伏せた乾いた微笑は何か自若 とし、やけに穏やかな声はむしろ恐ろしいほど起伏がないといっていい。
「悪い魔法使いは、王子様の借金を全て支払うことになってしまいました。…ですが魔法使いが馬鹿だったから悪いのです。連帯保証人になるということは、王子様が返済義務を果たせなくなった際、その義務を代わりに背負うということなのですから。」
目を伏せた微笑をたたえているままのユンファさんはさらに、何ら彼自身の感情の読み取れない、おだやかな声で滔々 と語りつづける。
「そうして悪い魔法使いは王子様の借金を背負うことになりましたが、月々の返済に追われて生活を切り詰めながら必死に働いているなか、馬鹿な魔法使いはそれでも王子様の愛を信じて、王子様を探していました。…馬鹿な悪い魔法使いは、まるで自分が王子様のお姫様にでもなったつもりでいたのです。――やがて執念深い魔法使いは、悪い悪い魔法を使って、王子様を見つけ出すことに成功しました。…そして魔法使いは、王子様が暮らしている小さなお家に行きましたが……」
ふ…と俺の目に振り向いた彼の伏し目、俺と目があっている暗い紫いろの瞳には光がない。
「…“悪いけど帰ってくれる? 彼女のお腹の中には新しい命が宿っているんだ。”――王子様の隣にはとても可愛らしいお姫様がいました。悪い魔法使いを迷惑そうに睨みつけているお姫様のお腹は膨らんでいます。…どうやらお姫様のお腹の中には、可愛い二人の赤ちゃんがいるようです。ふふ…」
ユンファさんが俺の目を虚ろに眺めながら、無味乾燥な微笑をする。
「そうして禁断の恋に溺れて、情熱的にセックスをしまくった王子様とお姫様はやっと真実の愛を見つけ、またしつこい悪い魔法使いの手からも無事に逃れられて、晴れて結婚をしました。…お金は無いけれども、王子様とお姫様は子供にも恵まれ、幸せな家庭を築いたのでした。――そうして二人は、いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。…めでたし、めでたし」
「……、ユンファさん…もしかして……」
俺は直感していた。物語調ではあったが、今の話ぶりはやけに鮮明な細部まで見えてくるものだった。
――彼は俺を見下した目つきでふっと笑った。
「馬鹿…。作り話に決まっているだろ…?」
ユンファさんの手に低く投げられたピンクのスキンが、ペチンッと俺の胸板に落ちてくる。俺は使用後の冷たいそれが肌に触れた不快感からぞわりとしたが、そんなことはどうでもよかった。
俺はすぐさま上体を起こす。するとスキンはころころと俺の胸をころがって灰色のかけ布団に落ちる。
「…で、ですが、…」
と俺はユンファさんを見たが、彼は強い鋭い目つきで俺を馬鹿にしたように笑う。
「ふふ…違うよ、僕の話じゃない。…ある王子様とお姫様の幸せな御伽噺だ。まあ僕が今即興で創ったんだが…いい教訓になるだろ。君もこれを教訓にして、迂闊なことはもう言わないことだ。」
「……、ねえユンファさん」
俺はユンファさんのその悪ぶった微笑を見据え、真剣に彼に切り出す。
「…今幾ら残っているのかは知らないけれど、俺が貴方の借金を全部返しますよ。」
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