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              「…今幾ら残っているのかは知らないけれど、俺が貴方の借金を全部返しますよ。」    こういう俺がその金額の借金を代わりに返済するということは、その実そう難しいことではなかった。  確かに俺は若いが、それであっても俺には、その額を一括で完済できる程度の貯金もあれば収入もあったのである。――しかしこれまではユンファさんの借金を返そうだとか、そのようには少しも思わなかった。    もちろん俺はユンファさんになら何だってしてあげたいと常に思っていたし、彼の借金を俺が肩代わりするというのでさえ俺は何らやぶさかではなかった。ただ、むしろそれによって彼が俺と会ってくれなくなる可能性もあった。そうでなくとも、俺たちの関係性に悪い変化が起こってしまう可能性があった。彼が語った()()のとおり、金銭のやり取りというのはそれだけ関係性の悪化を生じさせかねないものである。  ……少なくともユンファさんにとっての俺はセフレのうちの一人であり、例えば彼の彼氏となれたあとならばまだしも、セフレの男が借金を完済してやるというのはいささか出過ぎた真似だと俺は考えていた。    しかし――俺は先ほどの彼の「御伽噺」が、どうも単なるつくり話というようには感じられなかった。  俺がユンファさんの借金を返したくなった理由はそのなかばが「ある王子様」への憤り、そして俺の愛する「悪い魔法使い」の呪いを解きたい、その「ある王子様」が「悪い魔法使い」にかけた呪いを解きたいという、「悪い魔法使い」の救済を願うような愛だった。   「……それで…?」とユンファさんが暗い切れ長の目でせせら笑う。   「その代わりに、僕に何を求めるつもりだ。」   「…俺が欲しいものは、金では到底買えないものなんです。…俺が欲しいものはユンファさんであり、そしてユンファさんの心。だけれど…――貴方は金で買えるものではない以上…借金を返すことにおいては、俺は貴方に何も求めません。」    ユンファさんは「馬鹿じゃないの」と冷ややかな切れ長の目を伏せる。   「…僕の借金をソンジュが返す義理なんかない。」   「義理は無くとも、俺は返したいんです。ユンファさんがもう少し自由になったら、俺の彼氏になろうかどうかという余裕も出てくるだろうから。」   「余裕が出てきたって、僕は君の彼氏には…」   「別になってくれなくともいいです。貴方が笑ってくれるなら。借金が無くなれば、貴方も少しは幸せになれるでしょう。」   「……、…」    無表情で目を伏せたまま、それきり何も言わなくなったユンファさんの、その頬を片手で包みこむ俺は――彼の顔をぐっと上げさせながら、その赤い肉厚な唇を激しく食む。   「……ん、…」    と声はあげたものの、俺のされるがままになっている彼のやわらかい力の抜けた唇は抵抗もないが動くでもない、しかし彼の手は俺の陰茎をうすい羽毛ぶとんの上から撫でまわしてくる。――俺はそのつもりではなかったので、俺の唇に蹂躙されるがままだった彼の唇を解放した。  そして俺はユンファさんに――切なく少し眉尻を下げ、とろんとした半目開きで俺の目を見つめてくるユンファさんに、   「……リターンも求めずに借金を返そうという男なんて、不気味ですか…?」    とそっと尋ねた。   「…不気味だ…」    彼はわずかに笑ってそう言う。   「きっと俺は“悪い魔法使い”と同じなんでしょうね。彼もきっと…王子様への愛が故に、何のリターンをも求めず、王子様の借金を背負ったんでしょう――どうしても俺は悪い男ですから、その“悪い魔法使い”のほうに感情移入をしてしまうんです」   「……悪い王子様…」    ユンファさんが切ない恍惚とした表情で、そうぽそりと言った。  ――それはまるで俺を「悪い王子様」と呼んだようで、俺はにわかに胸が高鳴った。   「…はは…貴方の悪い王子様になりたいな…」   「…なれないよ…。ふふ…この馬鹿真面目くん…」    とユンファさんが寂しい微笑で目を伏せる。   「お遊びの恋愛ごっこはね…、もう少し上手くやらないと、あとで痛い目を見ちゃうんだぞ……」   「……、…」    俺の眉が険しくなる。カチンときたのだ。  当然だが、俺には「お遊びの恋愛ごっこ」などしているつもりがなかったからである。  ユンファさんは「例えば」と少し戯けた静かな声でいう。   「…僕のセフレたちは、君以外みーんなゴムなんか着けない。そりゃあそうだろ、だって僕のまんこ…キツくて狭くて…たくさんある(ひだ)が深くて…ぬるぬるで、ざらざらでぐちゅぐちゅで…挿れただけで出しちゃう男もいるくらいだ……はは…――だから初めて会ったときでさえ、“ウリやっているんでしょ、遊んでいるんでしょ、避妊薬飲んでいるんでしょ、いつも生でしょ? 俺にも生でヤらせて。なかに出していいよね、出すよ”……」    そう静かながらやけに軽快さのある声で言うユンファさんの伏し目、その暗い濃紺の瞳には、ある種正気には見えない虚ろさがある。   「ウリの方でもそう…。客の男たちはみーんな、“追加でお金払うから生でヤらせて”…。でも、仕事をクビにされちゃたまったもんじゃないだろ…? だからウリでは流石の僕も断るんだが…――ふふ…酷ければ、なーんにも言わないで生ちんぽ挿れてくる…、で、そのまんま普通に中出しされる。はは…」   「……、…」    寂しげに目を伏せたままユンファさんが少し困ったように笑ったのに、俺は何ともいえない気分になった。  たしかに俺も過去のセフレたちとはスキンの無い行為をしたことがあるが、かといって相手の合意なしにそれを無理強いをしたことはない。――しかしその男の軽率な無理強いを、自分はオメガ属男性だから仕方がないと諦めているように笑ったユンファさんは、それだからスキンを着け続ける俺に疑問をもったのだろう。    ユンファさんは灰色のかけ布団のなかでゆるく立てた膝のうえに片手をかぶせ、その小山を包みこむ生白い力の抜けた手の甲を眺めおろしながら、微笑してこう話をつづける。   「…おじさんたちも普通にナマナカ。…ご主人様とは、奴隷のまんこのなかにご主人様のザーメンを出してもらえるのは、むしろご褒美ってことになっている。――だから毎日そうだ。…僕は毎日誰かしらに生でヤられて、普通に中出しされている」    そこで「…なあソンジュ…」と彼がふと俺の目を見て、妖艶にからかうように目を細める。   「…わかるだろ…? 不器用な馬鹿真面目くんの君と、お遊び上手なお馬鹿さんたちとの違い。――どうせ僕たちは、“お遊び”の関係性から先に進むことなんかないんだから、勿体無いよ。…かかさず避妊薬を飲んでいるオメガ男のまんこだ。無責任で中出しし放題のまんこ。…折角だ、ソンジュもこれからはゴム無しでヤッたらいい。」   「()()()って何です」    と俺は不機嫌気味に低く聞いた。  ユンファさんは「え?」ときょとんとする。   「…さっき上手くやらないと痛い目を見ると仰言いましたよね。その()()()とは要するに何です。」   「…さあ…何だろうね」    ユンファさんが目を伏せてはぐらかす。   「その賢い頭で考えてみたら」   「俺はユンファさんとなら、むしろその()()()に合いたいんです。」    もとよりそれとは何だと聞いた時点で俺はわかっていた。そしてその「痛い目」とやらはどうも、俺の望んでいるような展開であるような気がした。  ……ユンファさんがいよいよ俺に惚れてしまう。彼のいった「痛い目」というのは恐らく、遊び相手のセフレの彼に、俺が本気に惚れられてしまうぞ――つかず離れずの「お遊び」の距離感からもっと寄って、大切にしたいだとか妙な誠実感をセフレに醸し出すと、勘違いをされて惚れられてしまうぞ――というような意味合いをもっていると、俺はそう推測した。    もちろん単なるセフレ相手ならばそうであろう。  しかし俺はユンファさんに対して「本気」だ。もとより恋愛ごっこだのお遊びだのはしているつもりがない。ユンファさんが俺にとって単なるセフレではないからこそ、俺はその誠実を彼に示しているのである。   「だからその()()()を見られるまで、俺はスキンを着け続けますよ。早く俺にその()()()を見させてください、ユンファさん」   「……ふぅん……」    すると伏し目の白けた表情を浮かべたユンファさんが、ふぅん、とそう高飛車な調子で鼻を鳴らしたあと、ひょいと肩をすくめる。   「つまんない男だな、君って。興醒めだ。…じゃあもう好きにしたら…? 後悔するかもしれないが」   「…ということは、少なくともその()()()を見るまで、俺はゴムを着け続けてよいということですよね。」   「…別に僕の許可制とかではないから。ソンジュが着けたいなら着ければいいだけのことだろ。」   「…じゃあ尚の事俺は着け続けます。ユンファさんには、俺に本気で惚れてほしいから――。」            さて――。      なぜ俺が、オメガ排卵期中のユンファさんを抱きしめながらこの記憶を蘇らせたか?    それは、俺が図らずも他の男との差別化に成功をしていた、という裏付けとなる記憶だからであろう。  ユンファさんがこのときにも言っていたように、彼の十数人のセフレの男らや、はたまた店のルールでスキンの着用を義務付けられている客ら、自分に貢いでくれる男ら、はたまたご主人様と、ユンファさんは関係している男らのほとんどとスキン無着用のセックスをしていた。  ……しかもそのなかには、彼が無着用での行為を男に強いられた場合も含まれており、有り体に言ってしまえば、ユンファさんは男らに明らかに軽んじられた扱いを受けていた。    むしろそれだからユンファさんは、俺がスキンを着用し続けていることにしばしば不満げであったり、折々こうした「別に君も生でしたらいいじゃないか」という俺の堕落を誘うようなことを言ったりしていたわけである(それは挑発や悪戯心や興味本位のほか、俺の恋心を拒むための威嚇であることも多かったが)。  それはむしろ、スキン無着用でのセックスが彼にとっては尋常なことだったからである。    しかし、だからこそ俺はこれからもスキンを着用し続けようと決めた。  ――今オメガ排卵期をむかえて楽観的になっている彼は、それでも渋々ながら「俺の好きなところ」をいくつか挙げ連ねてくれたが、そのうちにこの一つがあったからである。      “「……。別にもう今更なのに、いつもゴム…僕が大切だからって、着けてくれるところ、とか……」”      俺が思っていたよりもユンファさんのなかには、「俺だけは違う」という特別意識が根付いていた。  そればかりか嬉しいことに、彼は本当は俺のその誠実を好意的に受け止めてくれていたのである。    それこそ、ここまでにも幾度となくユンファさんには「生でいいよ」と言われてきた俺だが、そのたびに俺は意固地なほどその誘惑を断ち切って彼を尊重しつづけ、自分の男の我を控えつづけ、そして彼に愛を捧げつづけてきた。  実際その俺の努力というのはこれまでは大した手ごたえもないようであったが、しかし、何度すげなくあしらわれようとへこたれずにひたむきに愛を示し続けてきた甲斐あって、俺はいつの間にか、あともう少しでこの世にも美しい青年を俺の彼氏(もの)とできる、その理想の恋が叶う段階にきていた。    ――とはいえ、ここで気を緩めてしまえば全てが水の泡となる。  すなわち俺はここで改めて気を引き締めなおし、すべからくスキンの着用を続けてゆくべきだった。        むしろこれからもスキンの着用を続けてゆかない手などはない、というほどに――これは明らかな「チャンス」であったのである。          

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